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20年前、神奈川県鎌倉市で王将駒が出土していた(長さん)

本ブログでは、平安時代と鎌倉時代については、王将
駒は奈良県を除く近畿地方以外では、これまで出土し
ていないと認識していた。根拠は西暦2003年発行
の”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の記載による。
しかしこの認識が、厳密には間違いだったのに、よう
やく最近になって気がついた。実際には、

西暦1999年に、神奈川県鎌倉市の若宮大路沿いの、
小町1丁目で、西暦1175年~1225年程度成立
の”不成り王将駒”が一枚出土している

と言う事だ。親王将軍の時代どころか、頼朝の時代に
近い時点で、京都の皇族流に、鎌倉の若宮大路沿いで
は少なくとも、王将のある将棋を指し、田舎流の玉将
将棋では無かったようだ。なお、王の横線は等間隔で、
少なくともスケッチの写しが正しいとすれば、比較的
皇族風の、品のいい雰囲気の駒の、マネのように私に
は見える。”摂関と院の争い”という経緯は、鎌倉ま
で京都から離れると、少なくとも鎌倉時代の草創期に
は、”別世界の出来事”だったのだろう。
 発掘は当時、地元鎌倉市の大学の先生グループで行っ
たらしく、報告書が少し後に出たので、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒(天童市将棋資料館の出土駒カタロ
グ集)の編集に、間に合わなかったようである。
 何れにしても鎌倉時代の初期、京都の習慣は、鎌倉
幕府が成立すると、ただちに鎌倉市には入ったようだ。
そこから先の地方へは、王将を使う習慣は、余り広が
らなかったとしか、説明のしようも無さそうだが。ち
なみに、鎌倉幕府の成立に加勢した、北関東の武家に
は、源氏より、平氏や藤原秀郷流等、藤氏系の者が多
いという、事実はあると聞いている。
 なお、上記の情報は、”集成 鎌倉の墨書-中世遺
跡出土品-”(2017)鎌倉考古学研究所編で、私
は最近ようやく知った。本ブログの内容が、学術研究
として体を成しているかどうか、自信は余り無いので、
後追いで、今述べた成書の紹介結果に関しては、まと
めてでも、著作権がらみの許可を取る予定でいる。そ
の他この本には、幾つも新しい知見が載っているので、
追々本ブログでは、述べてゆくつもりで居る。
(2019/06/05)

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