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鎌倉の推定南北朝期中将棋木札近傍出土の墨書遺物(長さん)

本ブログでは何回も述べてきた、表題の神奈川県鎌倉
市御成の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札
は、墨書遺物としては弧立しておらず、
①近傍川跡底から13世紀後半の一文字”え”片口鉢
②地番御成町625番3から14C中”大仏”折敷、
③地番御成町625番3から14C中”花一○”折敷、
が、近傍出土している。
②と③は、御成小学校敷地内に掛るらしいが井戸跡か
ら出たようである。なお同様の、町場の小規模井戸が、
他に3つ、南側屋敷の普通タイプの南隅井戸が、他に
1つあるらしい。これらとは全く別に、北側鎌倉時代
屋敷の井戸は、2つあるらしいが、たいへん豪勢なよ
うに、よみがえる中世3、武士の都鎌倉には、書いて
ある。そして②と③の井戸からの遺物が、西暦
1350年近辺の成立とされている。②と③は、材質
が中将棋木札と同じなため、履歴に類似性が期待でき
るとみる。
 そこで結論から先に書くと、
寺の門前に在ったと見られる花売り商店の、あり合わ
せ折敷で作成された、墨書き木片といっしょの履歴で、
中将棋のゲームバージョン指定札が出土したとみなせ
ると、

中将棋木札の成立年代がやはり、西暦1350年近辺
と特定

できそうだ。
 さて、問題の中将棋木札の成立年の同定は、②や③
の遺物と同じ井戸に、本当に浸っていて、原型が持っ
ていたのかどうか、出土状況の特定に、何らかの発掘
時の事情による不確定性が有るらしく、

実は謎

とされている。
だが、同じ井戸の産物だと仮にすると、どの木製品も、

ゴミ捨て場の掃き溜まりゴミを、14世紀末に町が衰
退し始めた時に、井戸に投げ込んだため、いろいろな
ものの混ざり物ゴミの一つとして共出土してきた物品

のようである。
 そこでここでは、②と③を大事な準共出土品とみな
して、以下に補足説明をすることにしよう。
 その前に①の渥美片口鉢について説明する。この
遺物は、そもそもたいへん立派な物品だ。
 だから中将棋木札と①とは、別系統の感じである。
武家屋敷で鎌倉時代後期に、富豪でも会った時の権力
者が使い飽きたので、川に放り込んで捨てた鉢といっ
た感じである。そこで①は、水場の出土物ではあるが、
木は浮いて流れてしまう川底だし、立派さが違うので、
共出土扱いはしないことにする。
 なお、前に”うさぎとかめ”のカワラケの話をした。
そのとき”乾いた地層から4枚、かわらけが出土した。”
と述べた。中将棋木札の約30年前成立品で、
鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒群の成立と同じ頃のものだ。
実は①の渥美片口鉢と共出土の形で、カワラケ(番号
162~166)5枚が別に出ているという。これは、
中将棋木札より80年前、鶴岡八幡宮将棋駒より50
年程度前の成立の、①の渥美片口鉢と、年代も川底で
ある事もいっしょの遺物のようだ。
 カワラケは、”うさぎとかめ”の仲間の、集成鎌倉
の墨書整理番号、かわらけの156番~159番4枚
と、この162番~166番までの5枚の、合計9枚
が、神奈川県鎌倉市御成町、地番の625番区からは
出土している。むろん、無地のカワラケ、折敷は他に
多数出ているに違いない。
 さて前置きが長くなったが、

残りの②と③が中将棋木札と”ぴたりと同じ時代の物”

であり、重要だ。
 まず②と③の折敷の破片は、鎌倉市の鎌倉考古学
研究所が西暦2017年に発行した、”集成 鎌倉の
墨書”の6木製品(折敷)で、②が224番と、
③が225番と番号が付けられている。西暦1990
年の1月、すなわち、中将棋木札(同書・木製品その
他、313番)が発見された、その約3か月後に、
鎌倉市教育委員会と大学の先生との共同発掘で、地層
面2(上の方)、井戸5で、②、③共に発見されたと、
鎌倉の墨書に記載されている。
 ②の224番の折敷片には、両面に墨跡があるが、
字数は少ない。

一面が”大佛”、その裏面が”口月”

のようにも見える。鎌倉大仏での行事の縁日でも、示
したのか、持ち主が大仏という苗字なのか、私には判
然としない。
 ③の225番の折敷片にも、両面に墨書きがあるが、
②の224番と異なり、たくさん書いてある。私に読
めるのは、”集成鎌倉の墨書”で左下の3文字だけだ。

”・・花一○・・”とも、解釈できるよう

である。
 意味があるかどうか不明であるが、これらを無理や
り繋げると、ひょっとすると

鎌倉大仏の寺に墓参りする遺族用の”仏花金10文也”

といったような、意味なのかもしれない。
 寺院の門前として今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
に、南北朝時代に、ヨロズ屋のような店が有って、盆
や彼岸に仏花を販売していたので、その値札の類へ、
転用した、折敷の破片とも、とれるのかもしれない。
 よって、御成小学校の辺りは、たいへん豪華な

武家屋敷が鎌倉時代末に火事で消失した後、若宮大路
近傍の商店街のような小規模店舗の立ち並ぶ、町場の
店が多くなり、その中に”ゲームセンター”も有った

と考えても、それほどおかしくは無いような、墨書遺
物の出土パターンのように、私には思えてきた。
なお、今小路西御成小学校遺跡のゲーム関連出土遺物
としては”いかさまサイコロ”が、考古学本では良く
紹介される物品である。
 以上の事から、

問題の313号中将棋木札も、②・③折敷破片同様、
神奈川県鎌倉市御成町地番625番区の5号井戸に、
西暦1350年頃をスタートとして、長年浸っていた
と仮定して、議論を進めるしか今の所無い。

前にも書いたが以上のように、私は結論づけたと言う
事である。(2019/06/10)

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