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後期大将棋金成。酔象、麒麟、鳳凰3枚水無瀬兼成から(長さん)

本ブログでは前に述べたように、神奈川県鎌倉市の
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の鳳凰と香車は、成立時代
が鎌倉末期との調査結果であるとの認識をしている。
そして、これらの史料は、それと時代が大きく違う
ものの安土桃山時代の水無瀬兼成、将棋纂図部類抄
の後期大将棋の”大将棋、成りは酔象、麒麟、鳳凰
3枚のみ”の類のルールの将棋用であろうと、今の
所考えている。
 他方栃木県小山市神鳥谷曲輪の裏一文字金角行駒
と、色葉字類抄2巻物、尊経閣文庫蔵本八木書店の、
第一分冊末備、大将基馬名のそれぞれの成立時代の
本ブログの推定による、南北朝時代から戦国時代ま
では、普通唱導集から後期大将棋にかけての大将棋
についての

全く違う、成り金の多い成りパターンが、鎌倉駒と
将棋纂図部類抄の時代間にすっぽりと挟まっている

という、史料の解釈である。
 従って、本ブログの解釈では1565年成立とみ
る色葉字類抄の大将基馬名と水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄の間で、300年に近い先祖返りが、起こら
なければならない事になる。この先祖返りは、

誰がしたのか

を、今回は論題とする。回答を最初に書く。

水無瀬兼成がした。

理由は、

彼の六将棋の作駒の、金成りの書体を4種類以上で
はなくて、3種類に留めたかったので、諸説のうち、
後期大将棋に金成りの無いパージョンを、彼が選択

したと、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 水無瀬兼成は、基本的に将棋史の研究家ではなく
て、将棋駒作りの専門家である。従って後期大将棋
に関して、安土桃山時代の末時点で、複数のバージョ
ンが、共存して知られていたとしたら、問題なく、
自分の作った道具用には、ユーザーが便利に使える
ような、特定の一つのバージョンを、躊躇無く選択
するとみられる。
 今簡単のために、歩兵の書体について考える。
 将棋纂図部類抄を見れば判るが、日本将棋につい
ては、省略されているが、現在の書体パターンすな
わち、歩兵は”と金”に成るように、伝来している
水無瀬兼成駒を証拠史料として作ったとして、中将
棋は、成り歩兵の書体を日本将棋の香車の成りで、
摩訶大大将棋の成り歩兵の書体を、日本将棋の桂馬
の成りで作るように記載している。

こうする事によって、例えば、豊臣秀頼用に作成し
た駒が、将棋種間で全部混じっても、各駒のより分
けが、しやすいようにした

とみられる。なお、泰将棋が中将棋と同じ書体にな
るとみられるが、それは仕方なかったのであろう。
たぶん泰将棋の駒は、各駒共に、彼の中将棋の作駒
にほぼぴたりと、豊臣家に納付するときに、合わせ
たのだろう。あるいは、将棋纂図部類抄には書いて
ないが、豊臣秀頼等に納入する泰将棋では、歩兵の
成り等を、将棋纂図部類抄では使用していない、
日本将棋の銀将の成りに、したのかもしれない。
 そこで、実際には水無瀬兼成は、後期大将棋の歩
兵は、不成りにしたとみられるが、仮に、金成りの
ローカル・ルールバージョンを選択してしまうと、

金成りの書体が、もうひとつ要る

事になる。しかしながら、
桂馬の成りの書体と、銀将の成りの書体は類似だか
ら、これを使って泰将棋を中将棋の香車成り書体に
したとしても元々不便だし、とにかく、いろいろ有
ると煩雑なため、成り金の書体の種類は減らしかっ
たに違いない。そこで、

水無瀬の時代にはまだ、色葉字類抄の大将基馬名の
後期大将棋のように、金成りの多いバージョンも知
られていて混乱はしていたが、敢えて鎌倉末型の、
金成りの無いバージョンを、先祖返りで故意に選択

したと私は推定する。なお、こう推定できることは、

”仲人。不行傍、立聖目内(で)成り酔象。”

などと、すっトボケて、西暦1200年~1290
年までの、平安大将棋から普通唱導集時代の大将棋
時代の、”成りルールの考え方”を将棋纂図部類抄
に、彼が記載していると疑われる事から、充分に類
推できると私は思う。つまり、先祖伝来の口伝等で、
水無瀬兼成は、

①西暦1200~1290年、②鎌倉時代末、
③南北朝から戦国時代の、大将棋系の金成りパター
ンの変遷は、全部知っていたと推定できる

という事だと思う。
 このうち②が、作った将棋道具の管理上の使いま
わしという点で、最も優れていた。ので、彼は②の、
後期大将棋に金成りの無いパターンを、完全に、
何がどうなっていたのか、判っている上で、故意に
選択しているのではないかと、私には大いに疑われ
る。つまり、

近世に入る少し前の、後期大将棋に成りの少ない
パターンが成立したのは水無瀬兼成個人によるもの

と、今の所、本ブログでは考えるという事である。
 なお、こう考えると、水無瀬兼成は、本当に西暦
1443年成立とされる、曼殊院の将棋図を、正し
く写書したのかどうかが、疑問という事になって来
る。が、本ブログでは次のように、敢えて見ておく
ことにしたい。すなわち実際の史料が見当たらない
ため、少なくとも私には

仔細不明だが、西暦1440年代に成立の曼殊院の
将棋図の後期大将棋については、成りの金のルール
群を、どうにでも解釈できるような、何らかの記載
の不確定性が元々存在しているのを、水無瀬兼成は、
それを精読して、正しく認識していた

と推定すると言う事である。
 ちなみに、江戸時代の将棋書は、元々水無瀬作と
本ブログが見る、泰将棋を紹介したかったので、
江戸時代初期の将棋書作家が、色葉字類抄二巻物4
冊物第1分冊末、”大将基馬名”の成りの多い、
後期大将棋を、たとえ知っていても、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄を、ほぼコピーするのが目的であっ
たために、江戸時代の将棋六種の図では、水無瀬の
後期大将棋ルールを、しかたなく選んだのであろう。
 そのうち、”成りは酔象、麒麟、鳳凰三枚ルール”
も曖昧になり、江戸後期に後期大将棋は、中将棋の
成りを援用されるように、更に変わってしまった。
 つまり、近世の大将棋のルールの変遷は、幻の
ようにボンヤリとした記憶になってしまった大将棋
が、ほぼ形式的に、少しずつルールを変化させていっ
た姿が、現在では見えているにすぎないと、私は今
の所、推定していると言う事になる。(2019/06/23)

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