SSブログ

神鳥谷曲輪裏一文字金角行駒の裏金字の右下汚れの正体(長さん)

本ブログでは、西暦2007年に、栃木県小山市神鳥谷
北端の、神鳥谷曲輪遺跡(西方)宇都宮線西空き地で
発掘された、角行駒について”成立西暦1340年程度
の遺物の、コピーである疑いが存在するが、複写精度の
高いもの”との見解を取ってきた。そしてこの遺物に
ついて、

本ブログ独自に、裏一文字金角行駒と名づけてきた。

 この名称から、駒の裏の中央に、金が一文字で書かれ
た姿が想定されるが、実際には栃木県小山市の小山市
教育委員会発行、神鳥谷遺跡Ⅰ(第2分冊)の下写真の
ように、

上部のハの字しか、明確な墨跡は無い。

そもそも、南北朝時代のものなら、麒麟抄のように”金
は極崩しで書く”はずである。そこで以前は、本ブログ
のこの駒の扱いを、参考程度のものとしていた。
 しかるに2019年の3月末になって、尊経閣文庫の、
色葉字類抄二巻物4冊分け物の第1分冊/4冊の末尾に、
一覧形式独立ページで”大将基馬名”があるのに本ブログ
でも気がついた。そしてそこに、香車、反車、猛牛、飛車、
仲人の裏が、金である事が、発覚するに及んで、類似現象
と見なされた。そのため、”大将棋の変化モデルを立てる
基礎資料”に、この遺物の本ブログ内での位置づけが、
大きく上昇した。
 以上の経緯から、この駒の内容については、これまで以
上に、慎重かつ精細な、事実認識が必要とされるように
思われるようになった。今回は以上の背景から来る、
この遺物の状態見直しの一環として、

裏面の右下隅に存在する、汚れのような黒い部分の正体

についてを、論題とする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。目視の状況と合
わせて総合的に判断すると、このボーとして黒い部分は、

カタカナの”ヤ”の、”つ”の部分だけの物

の疑いも有ると見られる。

神鳥谷曲輪や.gif

では、以上の結論につき、もう少し説明を加える。
 この遺物に関する、発掘担当者、栃木県小山市市役所
の秋山隆雄氏の、前記発掘報告書の第一分冊の”館の造
営時期について”等によれば、本件の遺物の成立年代は
西暦1333年から西暦1392年までの、南北朝時代
との事である。ここでは簡単のため、以前の本ブログの
結論である、小山朝氏(朝郷)の活躍した西暦1340
年代で代表させる。
 それに対して、本ブログでは、これより悲観的な見解
を取る。元遺物は確かに西暦1340年代成立であるが、
後代の、栃木県小山市神鳥谷北端の廃尼寺(近世は男寺)

青蓮寺に、女物の下駄、櫛の破片と共に保管された、
宝物とされる、元史料のコピー

と見ていると言う事である。本ブログの推定によると、
最も悲観的な見積もりでの最終的な写しは、江戸時代中
期、18世紀後半に下ると見なされる。ただしオリジナ
ルの成り金が、大将棋の駒と通常の、平安小将棋(本ブ
ログの推定、持ち駒有り型、成り敵陣移動毎型で、駒字
書き方麒麟抄準拠型)とを区別するために、

正しく、崩しの弱い”将”の無い一文字金と書かれた物

であると、現時点で判断している。以上の事から神鳥谷
に存在したとの近世成立の古文書や、小山市宮本町の道
鏡が開基したと伝わる寺、持宝寺に記録等の有る小山市
神鳥谷曲輪の青蓮寺の要素を、ほぼ無視している秋山氏
の見解は、精度を欠くと考える。が結果的に、写しが正
確だった為に、写しであってオリジナルでは無いという
事が、議論にほとんど影響をしないと、今の所本ブログ
でも見るという事である。
 そこで、この遺物の成立は、西暦1340年代である
と、以下簡単に、記すことにする。
 従って、この遺物は、本ブログの言う、

普通唱導集大将棋南北朝型のルールと一致する、成りが
金と書かれた駒である

と結論される。
 しかしながら実際の写真を良く見ると、今回論題にし
たように、裏の金の字の右下の、ネズミ色の四角い枠で
囲った部分から判るように、

汚れがある。

 実はこの駒を、本ブログの管理人は、2度実物で目視
している。それによると、

実際に汚れは有る

ものの写真で、”や”の字の
2画目と3画目に当たる部分は目視では実在するように

見えない。

また、ネズミ色の四角い枠内左上のさらにボーと見える”
影”は肉眼では、はっきりしない。そこで、結論に書い
た通り、本ブログでは、このネズミ色四角部分の汚れは、

カタカナの”ヤ”の字の”つ”部分が、もしかすると
書かれていたのかもしれないし、単なる汚れなのかも
しれない

と、以降解釈し直す事にしたい。

最悪は”金(右下付き)や”と書いてあった疑いが有る

という事である。
 ただし解釈は自明であるように思える。

この駒の原作者の一例、近衛経忠が、中尊寺金堂境内遺
跡の銀将~歩兵の類に関する出土駒のデザインを真似て、
より古風なイメージを、かもし出すために、”也”の字
を加えたという意図

というものである。従来より以下の点、発掘担当者の、
栃木県小山市市役所勤務(当時)の秋山隆雄氏本人が、
強調されていた事だと、本ブログの管理人は面と向かっ
て、聞いた記憶があるので、そう理解するのだが。
 何れにしてもこの駒に関しても今後、従来にも増して、

より一層の、遊戯史研究家間の、現物そのものの相互チェ
ックが必要

だと、私にも痛感させられる所である。
 なお本ブログでは混乱を避けるため、今の所は”小山
市神鳥谷曲輪遺跡の裏一文字金角行駒”という、この駒
に対する、本ブログ内での表現・呼び方を、当面変え無
い事にしたいと考えている。(2019/06/27)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。