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江戸時代の将棋三家は、日本将棋の作者を源隆国と報告(長さん)

日本将棋の作者として、江戸時代には、本朝俗諺志や、
象棋図式百番奇巧が、大江匡房(1041-1111)
を挙げている。「広象戯図序」を著し、中国の象棋の
デザイナーでもあった、晁無咎または晁補之(ちょう
ほし、1052-1110)とほぼ同年代で、その時
代には、中国シャンチーが、欧州の研究家によっても、
縦11列の奇数筋になった時代とされると聞く。
 日宋間で交易は継続していたと見られ、よって本ブ
ログでは大江匡房を、奇数筋の、標準的平安小将棋、
9×9升目36枚制平安小将棋(取り捨て、双王型)
の、標準化上奏者と目している。
 しかし江戸時代、誰もが日本将棋と標準型平安小将
棋を混同した上で、大江匡房を発明者と、みなしてい
た訳では無かったらしい。
 具体的には将棋三家の、大橋宗与、伊藤宗看、
大橋宗寿は連名で、江戸時代の八代将軍の、徳川吉宗
から、将棋の歴史について下問され、当時の学者と共
にまとめた回答書(口上)を、西暦1727年頃に提
出している。それには、日本将棋は大江匡房ではなく
て、それよりやや前の、

”源隆国(西暦1004~1077)が、その他の点
で日本将棋と同一内容だった、当時の古小将棋から、
玉前配置の酔象と金前配置の猛豹を除いて、日本将棋
とした”

と、書いているとの事である。なお”口上”は、東洋
文庫に収められた、次の囲碁の歴史に関する、江戸時
代の古文書に、漢文ではなくて文語体で載っている。

爛柯堂棋話(Ⅰ)、東洋文庫(平凡社)、林元美(西
暦1778~1861)著、西暦1849年本。
東洋文庫による出版、西暦1978年、校注者は林裕。

 問題の文は、この文書の最初の方、1巻目の8ペー
ジ付近から後の、3ページ前後に出ている。
 なお源隆国は、宇治拾遺物語に出てくる実在公爵で、
宇治大納言と、上記文書では表現されているようであ
る。今昔物語の編者との説も昔はあったらしい。摂関
家に比較的近く、藤原頼通の側近の人物とも言われる。
 本ブログでは、今の所、この御三家の説は、別の文
献では見かけないので、読み飛ばしにする事にした。
私には真面目に書いているように見えるが、山本亨介
氏には、”かなり杜撰な文書”と酷評されている。
 なお、玉前配置の酔象と金前配置の猛豹のある小将
棋(持ち駒型)は、平安時代の古将棋ではなくて、

安土桃山時代の末期に、初代大橋宗桂が作った当時の
新作小将棋である

というのが、今の所の本ブログの見かたである。口上
の三人の説は、初代の大橋宗桂がそもそもり情報の出
所だと、私は思う。
 そして、どういう経緯で源隆国(西暦1004~
1077)が出てくるのか、今の所、少なくとも私に
は、さっぱり判らない。
 大江匡房は、後三条天皇の時代にも、失脚せず健在
だったと言われる源隆国から、”銀が一枚しかなく、
他方が酔象になっている、興福寺等の小将棋は変だ”
と聞いて、酔象を取るアイディアに、気がついたのか
もしれない。が、そこの所が今、どうもモヤモヤとし
た感じにしか、私には見て取れない。(2019/08/12)

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