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徳島川西大将棋のデザイナーは何故え奔横を先ず入れた(長さん)

本ブログでは、徳島県徳島市上八万町川西の、
川西遺跡の奔横は、平安大将棋4段段上げ型の、
横行前升目に、横行が存在したまま、奔王動きの
奔横を加えたものと、今の所見ている。では、
この奔横を入れた将棋から、平安大将棋の進化が、
特に始まった訳は何なのかを、今回は論題とする。
 回答を書いて、説明を加える。

奔横が最初と解釈しない方が良い。飛車と奔横が、
同時に入ったと考えた方が、判りやすい。

実体は次のとおりと、考えられるからである。

飛車が最も強い駒のときに発生する、終盤”玉追
いの飛車将棋”になるのを避けるには、飛車より
強い駒を、飛車と同時に入れればよい。以上のよ
うに、徳島川西大将棋(大将棋1230年型)の、
ゲームデザイナーが気がついたためそうした

のである。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも、ここで論じようとしている、徳島
川西大将棋(大将棋1230年型)は、以下のよ
うな、初期配列の将棋だと本ブログでは見ている。

大将棋1230.gif

スカスカなため、慣れないと把握し辛いが、一言
で言うと、

1~2段目を玉将だけ残して他の駒は全部取り去
り、ついで八方桂馬を2枚加えて、盤を13×
13から8×8に変えると、西洋チェスになる

と表現できる。つまり、
”大臣の猫叉を、奔王の女王に変えて、飛車動き
の城より強い駒を作り、終盤『玉追いの飛車チェ
ス』になるのを避ける”というアイディアは、
15世紀の後半以降に成立した西洋チェスの成立
よりも

250年程度前に日本の徳島県では知られていた

という事である。なお、飛車については、日本人
は知らなかったのではなくて、うかつにゲームに
加えると、難の有るゲームになると認識して、
西暦1110年頃に成立した平安大将棋には、
敢えて入れなかったというのが、本ブログの見解
である。
つまりは、

同じ事を、チェスの成立よりも250年前に、日
本人の、恐らく僧侶が発見した

という事であろう。
 むろん、徳島川西大将棋にナイトが無かったし、
横行や香車、反車、あるいは金・銀・銅・鉄将、
猛虎、桂馬が有って注人があるから、小駒が余分
で、チェスよりディフェンスが強すぎ、また升目
が多いから、チェスの方が、玉を仕留めやすいゲー
ムで、より優秀である。しかし、ゲームとしては、

この1230年型大将棋が、日本の将棋の中では
西洋チェスに、一番近かったはず

だ。持ち駒法でも九宮+王同士対面不可法でもな
く、追加であって入れ替えでは無いものの、大駒
の割合を増やして、オフェンス強化側に傾かせる
という意味で、西洋チェスの改善方式と、同じ
パターンのやり方が、西暦1260年までの大将
棋では、コンセプトの中心に採用されていたので
ある。ただし1290年型普通唱導集大将棋では、
大駒としての獅子の加入の効果が増え、中将棋型
の、中心駒として獅子を導入するという、ゲーム
改良の考え方が混在する時代になって来た。
 しかしながら、

実に平安大将棋から西暦1230年型への改善は、
加える駒種まで、西洋チェスとほぼ同じパターン

だったのである。
 思考の内容も、私が見る限りは、日本人も欧州
人も、どちらもいっしょだったと思える。
 約250年日本の方が欧州より早いので、模倣
の可能性が当然考えられるが、チムールチェスの
全体形が1260年の大将棋に、むしろ似ている
ので、たぶん偶然の一致なのではないかと思う。
 ただし、欧州で、イスラムシャトランジをチェ
スに、大臣を女王に変えて切り替えるときに、
チムール帝国関係者から、日本人がモンゴル帝国
の侵略を免れたのは、”我々には大将棋が有った
のも一因だ”と自慢していたと聞くとの”風説”
が、奔王駒と共に紹介され、それが、キャスティ
ングボードの働きをして、西洋ボードゲームの、
副官猫叉動きを、奔王動きに、最終的に力で変え
させた可能性が、全く無いとまでは、言えないの
かもしれない。
 つまり、川西遺跡の出土駒のイメージから、
奔横が第1番目とイメージしやすいが、

オフェンスをUPする為、飛車を入れたいと考え
たのが最初で、その解決策が奔横(動き奔王、
クイーン)の発明だったと考えれば、飛車と奔横
は、導入時期の早さでは同率1位のはずである

と考えれば、つじつまが合う。少なくとも本ブロ
グでは、そのように見ていると、言う事である。
(2019/08/13)

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