So-net無料ブログ作成

宝応将棋立体駒天馬が桂馬動きで銀将成りの言い訳(長さん)

想像だが、(伝)牛僧儒の西暦825年頃作
の玄怪録”岑順”小人の戦争記載の宝応将棋
天馬が、銀将成りだと私が主張したら、持駒
使用の謎の木村義徳氏は、”立体駒なのに、
兵卒以外が成る訳が無い”と反論するだろう。
 持駒使用の謎には、馬の成りは五角形駒が
成立し、裏に成り駒の名称が書けるようにな
ったので、発生したと書いてあるようだから
である。
 今回は、玄怪録の将棋、宝応将棋の天馬が

桂馬動きで良いのか。銀将に成るのか

について、もう少し綿密に考えてみる。
 YES.&YES.が回答だが、根拠とな
るポイントは、次の通りである。
元駒のルールについて。
 イスラムシャトランジと宝応将棋は、いち
べつして差が無いと、牛僧儒には、題材とし
て使い辛かったとみられる。宝応将棋の馬駒
が八方桂だと、イスラムシャトランジと余り
差が無いように見えるが、

幸いに桂馬だったので、ざっとルールを書け
ば、当時長安在住の、イスラム教徒を不愉快
にしない状況だったので、採用した

と考えられる。
 成るかどうかについて。
”輜車が退けない”と記載してある点が大き
く、車と馬駒共に大臣成りする可能性が高い。

では、以下にもう少し詳しく述べる。
 木村義徳氏に限らず、現在の遊戯史学会は、
史料として無い将棋具は”そんなものは無い”
と、さしあたり仮定して論を進めている。

その点が、本ブログと大きく違う所

である。本ブログは、使った後直ぐに捨てて
しまう将棋具と、

棋士の死後、墓荒らしに盗まれてしまって、
出る事の期待できない将棋具は、有ったかも
しれないと仮定して良い

という前提で、論を進めて来ている。つまり、
墓荒らしが有れば当然盗む、金で出来た金将
立体駒や、銀で出来た銀将立体駒は、たくさ
ん有ったかもしれないと、考えてよいという
ルールに従って、ここでは、これまで論を
進めているのである。学会全体がそうなので、

この点を許容しないのが、持駒使用の謎の論

である。なので”兵の成り駒用として、ナマ
駒の立体駒である、斬られて捨てた後の金将
立体駒を使ってしまうと、桂馬立体駒の成り
金用の駒は無いから、銀将や桂馬や香車の成
りは無かったはずだ”というのが、

木村義徳氏に限らず、現在の将棋史界の
主要な論法

なのである。だから、
桂馬成り立体駒は、ナマ駒とは別に有ったで
あろうという本ブログの論は、現在の将棋史
界では、現物は確かに出土して居無いので、

”信じる者は救われるの世界”と見なされて
いる

と、私にも認識できる。
 だからとりあえずは、批判しあうのでは無
くて、

対応付けをはっきりさせる事が先

だと考えられるのである。
 そこで、宝応将棋の時代と場所を、時間と
空間から、まずは特定する。
 時代は西暦825年頃の事であり、それに
異存は無かろう。
 持駒使用の謎では、第2波が広がり、第3波
(”インド発の”第2波と持駒使用の謎では表現)
が、そろそろ出始めた頃と、主張しているべき
時代である。
 本ブログでは、第2波は中国内陸部で弧立し、
第3波が世界を制圧していた時代と見ている。

その点が、少し違う。

つまり、このブログの方が、持駒使用の謎より、
”より少し”早期伝来派なのである。ただ、
第4波よりは、前だったと見ている点で、
両者にはその点に共通性が、有るだろう。
 ただし、木村説では兵が歩兵だが、本ブログ
では、ポーンであり真逆だ。
 ここから、以下のような論法が、本ブログ
では可能になった。
 つまり、長安で大食人の指す将棋は、西暦
825年時点で、強いルール型である。
 そして、
牛僧儒は、囲碁文化圏の学者であって、近所
で指している将棋は、自分の頭の中に存在す
る、”出来の悪いゲームはしない”という内
容の、防波堤の外側の世界と見て、観戦記では、
金象将軍の将棋を、適当にオッチャラかす
つもりだった。そのため、近所の
イスラム過激派のテロ攻撃等に合う懸念があり、
怪奇小説内で書く将棋は、第3波の時代に
於いて、第2波までで取り残された、

近所の将棋とは違う”ドンキホーテのゲーム”
である必要があった。

 しかし、仮に宝応将棋が馬が八方桂で、象が
飛車だった場合、イスラムシャトランジでは、
馬が八方桂で、車が飛車のゲームであるため、
宝応将棋のルールを駒名2文字で、ボカシて
しまうと、はっきり区別できない、類似ゲーム
と見なされる懸念が、依然有ったとみられる。
 が幸いな事に、たまたまだったが、宝応将棋
の馬は桂馬、牛僧儒の家の近くの大食人の指
している、イスラムシャトランジは、八方桂
だったのであろう。また、玄怪録の読者の多
くは、輜車が香車動きだと書けば、山奥の
白衣蛮という人種の、中国人が発展途上国人
と呼んでいた者の仲間の将棋と、イメージ
できる程度の、当時は公知なゲームだったの
であろう。そこで牛僧儒は”小人の戦争”に、

馬が桂馬の宝応将棋を採用した

と見なせるのではないか。以上のように、
ここでは推定しているのである。
 次に、場所について対応付けする。
 場所は両者で大きく違い、現場に関しては、
持駒使用の謎に限らず、現在の将棋史界は、
当然の事ながら、日本を問題にしている。
 持駒使用の謎では、第2波が伝来した時点
では少なくとも、日本に五角形駒は有ったと
考え、宝応将棋発生の西暦800年頃に、
桂馬駒の裏には金と書いてあったという、
タイミングに関する主張が有ったはずである。
なお、日本での独自の進化と主張され、これ
と宝応将棋は、関連付けされては居無い。
 そして、桂馬を仮に八方桂に変えるとすれ
ば、不成りが妥当であるため、支障をきたす
等で、第3波を受け入れられなかったと主張
していたはずである。
 それに対して本ブログでは、中国人と日本
人には、囲碁のイメージから、”出来の悪い
既存の将棋を指そうと思わない”との意識
が広がっており、西暦825年の時点で日本
には、将棋文化も、五角形駒も無かったと見
ている。つまり、日本の将棋へ進化する、元
の将棋の舞台は、

中国の山の奥地の雲南あたりらしい

としている。雲南には、鉱山で取れる、金銀
製の立体駒しかなく、だから雲南では五角形
駒が、発明されて居無いと、今の所本ブログ
では見る。しかも宝応将棋は、本ブログでは、

その今考えている舞台の雲南の将棋そのもの

としている。
 しかし、問題にしている怪奇小説には、
インド古形の車駒と見られる、輜車が、
”成らないと、横に行けない香車の動き”と
ほぼ間違い無いように書いてあるので、

兵以外に3段目成りを作ったのは、ほぼ確実

と、本ブログでは見る。なお、雲南は日本よ
りも、タイやミャンマーに近く、”タイ発
第2波”の到来は、自明だろう。

だから、馬駒が、

後退出来ない桂馬の疑いが強いのなら、相手
陣3段目で成れた可能性が高い

と考える。
 そして裏に字の書ける五角形駒が無い問題
については、五角形駒に色付けが無いのが
持ち駒ルールの発生原因であるから、この時
代の将棋に、持駒ルールが無いと見られる事
をも、考慮に入れた上で、雲南の将棋では、

金将動きの立体像の造形物は、2体では無く
て18体有り、初期配列で使用しない、16
体は、ミニチュアのコンテナ状のケースに置
いて保管し、成ったときに元駒立体駒と交換
して、その時点から使用したと仮定

して、この困難を切り抜けているのである。
 なお、宝応将棋の時代に、造形物は銀製で、
名称は当時は”成り銀将(金将動き)”と、
本ブログでは見ている。ちなみに玄怪録の
岑順(小人の戦争)では物語り上として、
金銅製の立体将棋駒との旨の記載が有る。
 冒頭で述べたように、そもそも”史料とし
て出土していない16本の、初期配列で盤面
に置かない、成ったときだけ使う立体駒の存
在は、現物が出土していない現状では、無い
としか見なせない”という、今の将棋史界の

オキテの縛りを前提としてしまうと、
本ブログの論に到達できない事は明らか

である。
 しかし、

単に駒のピースの数を増やすだけなのに、
出土するまで無いと仮定する事の不自然さ

に気がつくと、本ブログの論に耳を傾ける
準備までは出来るのではないか。以上のよ
うに、私には疑われるという事である。
(2019/09/20)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。