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1012年9月御堂関白記の周文裔博多来着記事(長さん)

講談社現代新書2196(西暦2013発行)
倉本一宏氏著”藤原道長の日常生活”に記載の
西暦1012年9月22日(宣明暦)御堂関白記
等の記載について、以下話題とする。
 藤原道長の日記である御堂関白記のうち、
ここで問題にするのは、将棋史に関連して、
北宋交易商人、周文裔の博多来着記事に関する
部分である。内容で大事な点を最初に書いてし
まうと、

周文裔は規則を守らず博多に着たが、このとき
には、三条天皇の即位直後だったため、恩赦さ
れて、大宰府を介して日本と取引ができた

らしいという事である。
 では、以下論を続ける。
 上記成書によると、藤原道長の西暦1012
年9月22日(宣明暦)御堂関白記には、
周文裔の博多来着に関して、次のような内容が
記載されているという。元日記を紹介する成書
も出ているが、私は個人的にだが、そちらをじ
かに、確認はして居無い。以前に見たことも
有るが、読み飛ばしたようだ。

 9月22日(宣明暦)の陣定では、周文裔は
廻却すべきではあるが、三条天皇の代替わりが
あったので安置する事とし、唐物使は路次の国
の愁いがあるので取りやめ、大宰府を介して、
然るべき物を召し上げる事とした。

 なお、然るべき物の中に、三条天皇が頒賜
または下賜した、錦、綾、丁子、麝香、紺青、
甘松、茶碗、蘇芳があると言う。
 周文裔は、交易の仕方に問題があるらしく、
藤原一族の手で廻却されそうになったようであ
る。例えて言うなら

藤原道長は、周文裔を、うざったい訪問販売員
のように見ている

事が判る。
 この後、本ブログの推定では
1015年1月、そして論文があるが、
西暦1020年に、この交易商人周文裔は、
着来しているようである。
 聞くところによればだが、この頃特定の外国
商人の入国を、例えば10年に1度というよう
に頻度に制限を加えていたはずである。つまり、

周文裔は来着が余りに頻繁なので嫌われていた

ようだと判る。また、”特別に許されて、交易
が認められたとき”には、大宰府の国軍との間
で取引がなされて、唐物が立て替える形と見ら
れるが、国軍の長の責任で購入され、倉本一宏
著”藤原道長の日常生活”の記載によりこの後、
”大宰府が和市(合意の上で購入)した唐物は、
朝廷の三条天皇に進上され『唐物御覧』が、
天皇や摂関、関係貴族によって行われた。その
後、このケースは三条天皇が、唐物を頒賜また
は下賜する形で、貴族が入手する事になった”
のだと言う。
 つまり、

一旦所有者になっているのだから、大宰府の
その時点の長官は、天皇に周文裔が何を売った
のかは、知ってて当然

という事が判る。
 西暦1012年の周文裔の来着のときには、
藤原隆家の更に前任者で兄、隆家と極めて関係
の深い藤原伊周が、大宰府の長官だったようだ。
だから、倉本一宏著”藤原道長の日常生活”の、
問題の西暦1012年の、周文裔の来着の経緯
と、藤原隆家とは直接には繋がらない。
 しかし、本ブログで推定する、西暦1015
年の、内裏の火事の翌年明けの、周文裔が
”孔雀や鵞鳥も持参した”とみられる来着の有っ
たときには、西暦1014年に大宰府の長官に
なっている

藤原隆家が、責任者として周文裔の持ってきた
唐物を、大宰府が一旦、買い取っていたのは、
明らか

だ。
 西暦1019年の刀伊の入寇の直後、京都の
何処かで、後一条天皇と藤原頼通、藤原実資の
御前で、藤原隆家は、後一条天皇の所持品の
はずの黄金将棋具で、使えるのが当然の様子で
将棋を指していたと、本ブログでは推定して来
た。
 藤原隆家が、他人の物であるはずの将棋具で、
まるで、自分の物であるかのように、使う事が
出来、御前でそれを誰も、おかしく思わないの
は、黄金の将棋盤を一旦、藤原隆家の責任で
周文裔等から買い取った形に、なっていたから
らしいと、御堂関白記のこれに関連する記載
からは、推定できそうである。(2010/09/25)

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