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大理国からの交易路はソンコイ河下りベトナム経由(長さん)

本ブログでは、西暦1014年の内裏の火災
による貴金属の焼失が理由で、黄金は朝廷に
よって必要と見た為、藤原道長主導の調達は
当然行われたろうと推定してきた。その結果
として、日本の将棋と、藤原道長用の孔雀を
同時に伝来させた、西暦1015年が、鉱山
国家、大理国から日本への、将棋のまさに
伝来年であろうと、これまで推定してきた。
 その際、インドネシア等、東南アジアに多
く生息していたとみられる孔雀を、交易品と
して混載し、日本に着いてただちに藤原道長
に贈呈するためには、
雲南の大理市から、陸路でしばらく歩いて、
昆明市の北方面に流れる、揚子江の支流で
上海に出るよりは、直ぐ近くを流れている、

ソンコイ河を下って、

ベトナムのハノイを経由し孔雀を調達、その
後、海南島方面から、日本に来たとするしか
考えられ無いのではないかと、推定してきた。
 なお、孔雀は生物であるし、当時三条天皇
が、焼失した内裏の再建を焦っていたと、私
は聞いている事から、その藤原道長への配布
は、”急に”だっただろうと、本ブログでは
推定したのであった。すなわち、周文裔等は、
西暦1012、1015、1020年に計3
回、特に1015年の年初にも日本に来たと、
ここでは推定している。
 そこで今回述べる事を、結論から書いてし
まうと、中国雲南省の大理市と、ベトナムの
ハノイとは、ソンコイ河の水上交通で古くか
ら繋がっていたと指摘する文献が有り、その
点でも、

ベトナム経由の可能性が、卓越して大きい

事が判った。
 文献の名称を、以下に先に示す。

角川書店1999年発行”ベトナムの事典”
「こうが(紅河)」の項目

に、その旨記載されている。
 成書の表現は、次の通り。

”紅河はまた、雲南省に至るまで滝をもたず、
年中河川交通が可能であるため、古代から
中国内陸部と、南シナ海を結ぶ交通路として
重視されてきた。”(桜井由躬雄氏執筆)

 なお、ソンコイ河は、この河自体よりも、
河口のデルタ地帯の方が、ベトナムの首都
も有り著名であり、古代交通路について、記
載している書は、そう多くは無いようである。
web上にも、”滝が無い”事に関する情報
は、日本語では今の所、私には発見できない。
 河自体も全長1200km程度の、日本の
河川に似た急流河川で、河口のハノイから、
雲南大理市へ、物資を船で運ぶには、苦労が
有りそうだ。だが逆にハノイから

空舟で登って勝負手の交易品を大理で積んで
ソンコイ河を下るというやり方は、さぞや
軽快感が有った事だろう。

 経路は、それほど長く無いと見られるが、
揚子江経由の上海ルートは、雲南省の大理市
からは陸路がある。だから、海のシルクロー
ドの使用に慣れていた、北宋の交易商人にとっ
ても、安全性という点で、幸い北宋王朝との
外交関係が西暦1014年頃には、一時的に
改善されていた、李氏大越国経由の方が、
孔雀の産地を通らない上海ルートよりも、か
なりルートとして、使い易かったに違いない。
 河川も海も、同じように船に荷を積む水路
だという点で、海のシルクロードを使った
伝来に、近いものだと見て良いと思われる。
よって、中国北宋商人の(一例)周文裔は、

船で中国北宋から大理へ将棋具を買い付けに
行き、それを買って、その船に積んで定番の
水路、次いで海のシルクロードの通常航路を
使って、博多に来たと見て、ほぼ間違い無い

ように私には、かなりはっきりと見えるよう
になって来た。以上のように、冒頭の成書の
事典を読んでからは、感じられるようになっ
たのである。(2019/09/30)

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