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1142年9月の藤原頼長と源師仲の大将棋は4段(長さん)

以前、西暦1142年(宣明暦)9月12日の
藤原頼長の日記、”台記”にある大将棋の内容
について議論した。その際は自陣3段目型を前
提にしたように記憶する。今回は、

藤原頼長が①第2標準将棋ではなくて大将棋と
言っている事、自陣三段目型だと、②角行類似
ルールの飛龍が、初期配列で直射する不自然さ
がある事の、以上2点から、

問題の日記は、自陣四段型の平安大将棋ではな
いかという点について、以下論じる。
 さいしょに先行研究である、(故)溝口和彦
氏の四段配列二中暦平安大将棋について、振り
返る。
 歩兵が、四段配列であるという点は同じだが、
(1)横行が3段目、(2)飛龍が鉄将の2升
目前、(3)飛龍が、跳び越えシャンチー象で
ある。
 本ブログでは、(1)’”方”は強意であり
横行は2段目、(2)’飛龍は桂馬の2升目前、
(3)’飛龍は、塞象眼有り、隣接升目不止ま
りの角行の動き(斜めに近くでなく遠くへ行く。)
としてきた。
 (3)と解釈したので、溝口説では飛龍は、
銅将の前の歩兵を1歩前進させても合い当たり
しないが、

本ブログの論では、飛龍のゲーム初っ端の、
激しい消耗が、起こってしまう。

本ブログで、溝口説のように鉄将の前に飛龍を
移動させずに、単純に桂馬の前に移した為に、

本ブログでは、今まで余り強調はしなかったが、
飛龍を温存する効果が有った

ようだ。
 これまで本ブログでは、

飛龍は序盤に消耗するとして、
藤原頼長と源師仲の西暦1142年の大将棋を
推定してきた。

溝口説にしても本ブログの説にしても、飛龍は
筋違いでは無いので、(3)’の駒の動かし方
ルールについて、角行類似説を取る本ブログの
方が正しいと仮にすると、

不成りの飛龍は、どのみち消耗はしやすい

とは言える。
 ただし、さいきん気がついたが、(2)’の
ように、本ブログでは桂馬の2升目前に、飛龍
を移動させたので、先後手共に、猛虎をどちら
か斜め前に1歩づつ、4枚共に移動させると、
初期配列のままからの飛龍の攻撃を、初期配列
で銀将の前の歩兵地点で受ける事が、出来てい
るようである。

自陣四段化の本当の狙いは、上の点に有った
可能性がある

ように見える。そこで以前結論付けた、
藤原頼長が端攻め戦法、源師仲が中央突破型で
指して、速度で前者が負けたという解釈で、本
当に合っているのかどうか、

今後もう少し詳しく調べてみる必要は有りそう

だ。
 さて何れにしても、以上の準備をしてから、

藤原頼長と源師仲の西暦1142年の大将棋が
自陣3段でなくて、4段と見られる理由

を考える。
 答えを先に書くと、”大将棋を指した”と
書いてあって、”(新作の)標準将棋を指した”
と書いていないのが、ヒントのように、私には
思える。

自陣三段型が、陰陽寮作と本ブログが疑う標準
平安小将棋を意識した、第2標準将棋オリジナ
ルであり、それが大将棋と改称されたときに、
小将棋に、敢えて合わせず、自陣4段化したと
私には思える

からである。”大将棋と指した”と書く所を見
ると、藤原頼長の時代にはその30年程度前と
違って、標準平安将棋を小将棋、旦代の難点を
勿怪の幸いとして、主導権を摂関派が、握り直
そうとして作った、平安大将棋(自陣3段目型)
を、真標準将棋と呼ぶ感覚が、”30年程度の
時代の流れで薄れて来ていた”という事では、
ないのだろうか。
 概ね30年の間に、ゲーム性能の改善の方が、
標準だと言い張る”ツッパリ”より、大切になっ
たのであろう。
 そのため、実際にはその30年間で、

平安大将棋は自陣3段配列から、自陣4段配列
に変化していた

のかもしれない。
 しかし、陰陽寮作成の自陣3段配列の平安大
将棋は、西暦1200年頃まで、記録には残さ
れていたのだろう。
 無視する訳にも行かず、

二中歴の大将棋の記載は、”玉虫色”になった

と考えられは、し無いか。
 以上の事から、個別に平安大将棋を流行らせ
ればそれで良いと考えた、藤原頼長は、

ゲーム性能を少し優先させて、西暦1142年
には、恐らく自陣4段配列の、平安大将棋を、
源師仲と指した。

 以上のように考えられるのではないかと、最
近私には、思えるようになって来たのである。
(2019/10/11)

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