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タトン、アユタヤ、アンコールワットの象棋の差(長さん)

ここでは、ミャンマー南部ヤンゴン東方の
パゴーやタトン、タイのバンコク北の古都
アユタヤ、カンボジア内陸の遺跡、アンコー
ルトム、アンコールワットにおける、
西暦1000年前後の、チェスゲームの差を
論じる。どれも、日本将棋に繋がらないと
見ているので、その準備として、話の整理が
必要である。問題点は、
西暦1000年頃は、上記の地名の所属国で、
ミャンマーとタイがモン族でいっしょで、
カンボジアがクメール族で別にもかかわらず、
現在は、ミャンマーだけシットゥインで、
タイとカンボジアがマークルックでいっしょ
であり、ややこしいという事である。
 結論から述べると、

タトンとアユタヤとは、シッケ成りの有無だ
け差があると思う。アンコールワット付近は、
ひとまずアユタヤとイコールと仮定するしか
無い

となる。ただ、アユタヤとアンコールワット
は、途中で分岐して、また合流して、両方
マークルックになるという、手の混んだ事が
起こったと考える。
 では、論を開始する。
 今までの本ブログの見解では、
 ミャンマー南部のパコー・タトンの象棋は、
西暦1000年付近の段階で、

今のシットゥインとは、①副官の個数に制限
が無いのと②初期配列で、1段袖象馬車配列
の他国ルールと同じ定型型だったという点だ
け違う

という事になっている。恐らくだが、

シッケチューの有るゲーム盤は、ローカル

だろう。つまり今のタイ、バンコク近辺の、
西暦1000年当時、風前の灯のドヴァーラ
ヴァティー国のアユタヤには、格子升目盤し
か無かったとみられると言う事である。ので、

3段目で単純に成れるルールという点だけが、
パコー・タトン象棋(西暦1000年)とは
違っていた

はずだと思う。そして、その時代はアユタヤ
は、ほとんどカンボジア領内同然だったろう。
 だから、西暦1000年頃は、とりあえず
だが、

現タイのアユタヤルールと、現カンボジアの
アンコールトム・アンコールワットの象棋の
ルールは、同じとみるしか無い

と私は思う。
 その後、ミャンマーのパコー・タトンは、
ミャンマー化して、今のシットゥインに静か
に移行したと、ひとまず見て置く事にする。
 よって、以上のように、初期条件的に仮
に推定すると、

アユタヤのゲームも、アンコールワットの
ゲームも、イスラムシャトランジ型に、
象と車が反転した後なので、日本の将棋の元
では無い事になる。

 反転には、ミャンマーで数十年、タイと
カンボジアでも100年しか掛からず、西暦
850年前後だと、今の所は推定しておく。
中国でも玄怪録の成立した同時代には、とぼ
けて”山奥の将棋のルール”が後に残る文書
の文字としては残ったが、それは”とぼけ話”
であり、都会の人間は当時、将棋からはイス
ラムシャトランジを連想していたはずというの
が、本ブログの説である。
 次に、同じ①副官の個数に制限が無いのと
②初期配列で、1段袖象馬車配列の他国ルー
ルと同じ定型型、③成りが恐らく相手陣3段
目である点だけシットゥインとは違う、
逆に、④歩兵が右の4枚だけ1歩進んでいる
点だけマークルックと違う、タイのアユタヤ
とカンボジアのアンコールワットの象棋が、
それぞれどのように、マークルックになった
のかを、推定する。
 大切な点は、少なくとも本ブログでは、

12世紀初に中国シャンチーが成立したとき
に、カンボジア・アンコールワットの象棋だ
け、交点置きになったと、従来仮定している

点である。それを今仮に、西暦1150年と
しておく。
 1150年以降、タイ・アユタヤの象棋は、
そのままだったが、現カンボジア、アンコー
ルワットの象将棋は、9×9路化して⑤副官
駒が2枚化、⑥兵駒が、4段目に直線配置、
⑦相手陣4段目成りに変化したと推定される。
つまり、カンボジア・アンコールワット象棋
は、タイのマークルックと3点のルール差、
タイ・アユタヤの象棋は、恐らくだが、1点
のルール差だったと考えられる。
 この状態は、西暦1250年前後に、モン
ゴル帝国が伸延し、タイ領内にタイ人が多数
逃避移住して、旧大理国の習慣が流れ込むと、
現行のマークルックに近づくように、変動し
たと、従来より本ブログでは考えられている。

つまり、兵列が3段目一直線配列、成り3段
目ルールで升目置き象棋のマークルックとな
り、ゲームの雰囲気が日本の将棋に近似した

という事である。なお、言わなかったが、大
理国の将棋が銀将化したのは、西暦950年
頃であり、インドへの伝来は100年以上
後の、西暦1050年以降だったのかもしれ
ない。がミャンマー、タイ、カンボジアへは
より早かったはずである。このページでだけ
は、東南アジアからの、日本の将棋の伝来説
に有利なように、西暦1000年の船出には、
この3国の何処が出発点でも、銀将は間に合っ
たと仮定してみよう。つまり草創期大理国か
ら、インド、ミャンマー、タイ、カンボジア
へ、銀細工の銀将駒が、茶馬の道伝いに伝来
したインパクトが、10世期過ぎに象駒が、
イスラムシャトランジ型から日本型へ転換し
た原因だと本ブログでは考えているのである。
銀将が共通である効果は、多少だとして、す
ると将棋に関しては、

歩兵の3段目一直線配列こそが大理国の記憶

だというのが、本ブログの論と言う事になる。

 桂馬が左右共に、初期配列からは出せない
事が、ようするに日本将棋臭さをかもし出し
ている

と見ているという意味である。
 なお、以前に述べた幻化したシャッツロン
が、いくぶん残っているとすると、今の所、
カンボジアの象将棋は、タイのマークルック
と、少し違うバージョンがあるのかもしれな
いし、(仮説)西暦1150年から西暦12
50年までの交点置き時代に、兵駒がポーン
ではなく、歩兵のルールだったのかもしれな
いという事になる。
 以上で、以後議論が紛れない程度のマトメ
は出来たように思う。
 増川宏一氏は、従来よりアンコールトム・
アンコールワット遺跡の文明の高さ等を根拠
に、日本の将棋がカンボジア等から来たと、
力説されてきた。

本ブログは、この考えに反対

である。以上のようにまとめると、増川説の
当否を考えるには、思考の上で、
西暦1000年時点の、本ブログの大理国将
棋、つまり8升目で一段目、香車、桂馬、
銀将、玉将、金将、象、桂馬、香車という、
車が弱く、象が実は、角行で飛車系列である、
”インドの第2波”ないし”ビールーニ反転
”を拒否した将棋と、今述べたカンボジア・
アンコールワット象棋を、入れ替えて置いて、
おかしくないかどうかを、考えればよい事が
判る。そして、

それはおかしいのである。

なぜなら、大理国でだけ、ゲームが違うのは、

山奥なので、情報の伝わりが悪いため

と、ただちに察しが付くのだが。
現行イスラムシャトランジ型のシュリーウィ
ジャヤのマレーシア・インドネシアの対岸の
アンコールワットのカンボジアが、ゲームの
形としてここでだけ弧立しているというのは、

どうみても不自然

だからである。(2019/12/27)

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