SSブログ

北宋初期天体暦を作成した中国にイスラム天文家(長さん)

以前本ブログで、北宋期に、プトレマイオス
著作のアルマゲストを象徴するイスラム科学
が中国王朝によってもてはやされ、それが、

中国シャンチーの基盤が、イスラムシャトラ
ンジになる原因となった

との旨述べた。根拠として実際に、惑星暦で
イスラム天文学を取り入れたのは有名だとも
述べた。ところが、この本ブログの主張は、
後でよく調べてみると、出典が不明で、実は
はっきりしない事が判った。

私の宋王朝と明王朝の読み違えが有った疑い

がある。そこで、今回はもっと正確に調べな
おした。ここでは、その後調べた内容を書く
事にする。
 以下の事が判った。すなわちwebに、
北宋の皇帝太祖が、王処訥が作った”応天暦”
の作成時の助手として、イスラム系の天文学
者、馬依澤を北宋国立天文台に雇った(日本
で言う、天文道の担当者になった)という。
馬依澤は、

アル・バッターニーの著書(元代の回回暦に
近いもので、惑星運動を除く部分の功績が、
大きいとみられる)を訳したともされる。

またたぶんだが馬依澤自身、惑星の公転周期
(地球との会合周期)の数値改良を、中国で
しているようである。惑星軌道(外惑星主円、
内惑星従円)は、北宋時代までは円軌道だろ
う。晩唐期”宣明暦等で、改善の努力はした
が成果は限定的だった”と聞いている。(暦
の大辞典、岡田芳朗他、暦の会、朝倉書店、
2014年の宣明暦の解説部。)従って、
たぶんだが、北宋時代の暦の惑星計算に、
惑星軌道に対して月軌道で言う、楕円に対応
する”中心差”を考えたかのように示唆した、

本ブログの記載は誤りだ。

 ただし以上の事から、北宋の太祖の時代に、
イスラム天文学が五代十国より優れていると、
北宋が思っていた事を示唆はしているのであ
ろう。ちなみに、北宋の用意した天文台は、
元王朝よりは貧弱で、北宋代の改暦一般に関
し、熟練作暦家の劉義曳は、後に疑問視もし
ていたという。この劉義曳の意見は正しいと、
今では考えられているらしい。(中国の天文
暦法。薮内清、西暦1969年、平凡社)
 当時の中国の暦には、太陽年が時間の数分
長すぎの問題があり、馬依澤の訳したアル・
バッターニーの著書には、逆に2分位短すぎ
の、当時から100年程度前の結果が載って
いたようだ。が、中国北宋には誤差が確認で
きず、イスラム天文家、晩唐時代のバッター
ニーの観測や主張は、北宋時代には採用され
なかったようだ。採用されたのは元代である。
 また回帰年と近点年とは違う事が、バッター
ニーの著書には書いてあったようだが、北宋
には無視された。ただし、月の軌道の朔望時
における、中心差+出差の変移振幅の基本数
値位は、馬依澤らが改善しただろう。なお、
バッターニーはスーパームーンを知っていた。
 また日月食の予想法が、五代十国の頃より、

北宋時代に、進歩したと言う話は無い。

以下しばらく脱線するが。
 日本では宣明暦に平行して、五代十国の
呉越国より符天暦を取り寄せて使い、陰陽道
家と宿曜道家が力を合わせ総力で、通常の暦
と、星占い用の七曜暦を作成して、宮中へ供
給していた時代であった。
 その際月食の計算で、しはしば陰陽師+
宿曜師が、中心差+出差の変移振幅の符号を
間違う単純ミスをしでかすらしく、藤原実資
が小右記に、”暦の月食位置に15°程度の
東西誤差があった。つまり今回のケースでは、
みずがめ座α星付近で起こった部分月食が、
『みずがめ座ε星付近で起こる』としたとい
う内容の、位置予想違いのミスが有った”と
の旨を西暦1031年7月15日の部分月食
について、その翌日日記に書いている。
 ちなみに宣明暦等の陰陽暦では今の太陽暦
とは異なり、同じ月日で地球の影が±15°、
年により東西にズレる。が、当時の春分点は、
うお座の紐の結び目の赤経現1時付近にあり、
11世紀には、陰陽暦7月15日に、西暦
2000年分点で赤経21時付近のみずかめ
座ε星や、やぎ座θ星付近方向に、地球の影
は伸びない。なお当時の陰陽暦7月15日は、
地球の遠日点通過後1/4年に近いが、その
均時差(軌道楕円項)の影響は角度で約2°、
時角で8分程度後退の程度だ。藤原実資も
天文道師の安倍時親(3代目当主で兄)等も、
宿曜師等の、この計算凡ミスには、さぞや、
あきれた事だろう。
 さすがに当時天動説だった西洋天文学の国
の馬依澤は、今述べた内容は、何がどうなっ
ているのか、図に描いて説明できるくらいに
理解しているだろうから、日本の暦担当者の
ようなミスは無かっただろう。すなわち、や
りかたは中国王朝流を、単に押し付けられて
いるとしても、イスラム教徒の天文学者の方
が、具体的な仕事の仕方で日本人や中国人よ
りも、たぶんに信頼感が有ったので、雇われ
たという事かもしれない。
 なお数学については、アル=バッターニー
の著書以降、三角関数を中国や日本でも使う
ようになったという話は聞かない。元代より
前の中国では、円周は相変わらず、恒星年の
日数だったはずである。イスラムやインドの、
0も有る数学も、中国では生かされなかった。
 ただし北宋宮廷内で、イスラム系の天文学
者が優待される傾向はその後も続き、馬依澤
の子孫はその後代々、北宋の国立天文台に、
雇われ続けたらしい。
 以上は天文学と数学だが、薬学や麻酔の技
術がイスラムから東洋に輸入された。造船技
術も、中国宋朝はイスラムから、多くを学ん
だという。
 よって中国シャンチーが成立した頃の中国
に、イスラム科学優位の世論が強かった事は、

ほぼ確か

だと考えられよう。(2020/01/24)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。