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17路の碁盤不知の日本。大大将棋は何故有る(長さん)

以前述べたように、キトラ古墳の天文図から、
日本人は碁盤の路の17路から19路への
変化議論の当事者で無い事になった。しかし、
だいぶん以前に述べたが、大大将棋の17升
目は、本ブログによれば、17路囲碁盤の
淡い記憶とされていたはずである。では、
西暦700年の日本人大衆が、歳差と碁盤
路の関連性を知らないのに、記憶の薄れた
後代の日本人が、それを知っているのは何故
なのかを、今回は論題とする。回答から書く。
ずばり、キトラ古墳時代から少したって

西暦735年前後に、吉備真備から経緯を
教わった

のである。
 では、論を開始する。
 吉備真備は、遣唐使として唐に西暦717
年にわたり、

囲碁一式と大衍暦書13巻も西暦735年に
持ち帰った

ので知られる。
 その後、儀鳳暦に変えて西暦764年から
大衍暦が日本にも導入されたが、

儀鳳暦は歳差を否定した、恐らく保守的な唐
代暦学者の李淳風、大衍暦は、歳差の存在を
支持した唐暦学者の祖沖之によって作られた

ものである。なお、以下の成書を読んで、私
なりに考えると、東晋時代には発見されてい
た歳差が、唐代にトラブルになったために、
李淳風によって、儀鳳暦では、採用が棚上げ
になったようである。具体的には、恒星の赤
経、赤緯の歳差変移が、本当に歳差と同じも
のかどうか、唐代にモメたという事が、有る
らしい。
 この場合は中国の天文観によれば、地球
は球ではなくて、タライをひっくり返した
ような形のはずなのに、本当にコマのように、
歳差運動するのかどうかが、4世記に中国で
独立発見されたその現象について、7世紀に
問題になったという事のようだ。成書は以下
のものである。
 ”日本史を学ぶための古代の暦入門”、
細井浩志、吉川弘文館、西暦2014。
 何れにしても吉備真備が、儀鳳暦を、せっ
かく自身が持ち帰った、大衍暦に変えさせる
ために、真面目に努力したとすれば、

囲碁の路が17から19になった事と、その
理由(こぐま座アルファー星の赤緯変化)の、
日本での広報に力を入れたと考えるのが自然

である。その結果日本の大衆はキトラ古墳の
西暦700年頃には、歳差や囲碁の昔の路数
について余り知らなかったが、西暦760年
頃になると、どちらも知り、その因果関係を、
理解するようになったと、考えられる。奈良
時代の日本人は、理数科が強かったようだ。
 また星辰マジナイ専門書でも、細井浩志氏
によると、北斗七星単独から、北斗七星+
北極星に、大陸では変化していたため、追従
するためにも、吉備の意見を聞き、歳差を理
解する必要が有ったようだ。また易とも関連
の深い大衍暦に変えた方が、奈良時代末期に
は都合が良かったので、結局は儀鳳暦から
大衍暦に変わったのだろう。
 以上の経緯で、吉備真備の、天文学者でも
あり、遊戯史学者でもあり、更には陰陽道にも
関係するという、一人二役、三役の果敢な
啓蒙活動も有って、

17路の碁盤の伝説が、うっすらだったとし
ても残った結果、安土桃山時代の17升目の
大大将棋の成立に繋がった

と、今の所私は考えるのである。(2020/01/26)

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