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私説、朝廷サロン・双王小将棋仮説根拠のまとめ(長さん)

平成の天皇に将棋の趣味があるが、今の日本将棋
を、普通に楽しんでおられるだけだとの旨の情報
が、”解明将棋伝来の謎”松岡信行著に出ている。
 本ブログでは、白河天皇から後陽成天皇までは、
朝廷での小将棋の標準は、王将×2だったとして
いる。後奈良天皇の詔の話から推定されるように、
実効力は別として、将棋文化を朝廷がコントロー
ルしているとの意識が、存在した可能性がある。
実効力は中世、近畿地方と神奈川県鎌倉市の街中
だけに、限定されたと、本ブログでは推定している。
 その第一の中心的根拠は、本ブログで以前述べ
た、関西方面で、よほど摂関家が強い興福寺のよ
うな例を除いて、

古代末~中世に玉将が出土しない事

である。
なお、近畿以外になると、一乗谷、鳥取、福岡、
新安沖沈没船から、中世に玉将は出土している。
鎌倉に王将駒が、ひっそりと出土している点は、
本ブログでも前に指摘した。以上は中世に朝廷が、
鳥羽離宮135次のような王将駒を、玉駒として
推奨した、最有力の証拠と本ブログでは見る。

なお今の所、本ブログの論の賛成意見は皆無

である。原因は少し後で述べるが、ともあれ自分
が、この点でのトップランナーだと考える事にし、
良い事だと思うようにしている。
 さて更にここでは、他の根拠もあわせて、証拠
のまとめをしておく。以下、論を開始する。
 2番手の証拠として、最も大きいのは、
八木書店2000年発行(復刻)の、二巻物
色葉字類抄、加賀藩前田本の、1/4冊末備奥付、

小将碁馬名の玉駒が、王将である

事である。今回はこれにつき、もう少し詳しく述
べる事にする。
 二巻物色葉字類抄、4分冊化を実行した西暦
1565年書写者で、小将碁馬名の挿入者とみら
れる雪竹老人は、

戦国時代に天皇家では、日本将棋の玉は、
2枚ともに、王将だと認識していた。

ので、玉駒を書く所に、王将と書いたというのが、
少なくとも本ブログの見方である。玉駒を書くと
ころは、一箇所だったので、玉将を省略したのだ
ろうと、言う向きも有るかもしれないが、それな
ら、色葉字類抄のフォーマットから見て、王将の
字の下に小さく、”他一方ハ玉将”等と、注釈を
入れれば済むだけのはずである。なお、加筆者と
みられる雪竹老人は、自身のあとがきの中で、”
写書は、聖徳太子に見せたいと希望している”と、
取れる文を書いている。近年の成書に”聖徳太子
は天皇だ”と題字しているものも有る位だから、
色葉字類抄のターゲット読者が、皇族である事を、
雪竹老人が意識していたと、仮定できるだろう。
 しかし、これに関して前にも述べたが、恐らく
上の史料を慶長期に問題にした、あい嚢鈔の、
西暦1590年後半の、慶長本書写者兼、
玉/王将の理由の項の加筆者が、本ブログの論
は取らず、日本将棋の玉駒は、上手が王将、下手
が玉将の1:1だと言う意味の記載であると、
安土桃山時代の末から江戸時代草創期にかけて
主張した。そしてかつ、

あい嚢鈔の説が、非常に優勢になって今日に至っ
ている。

そのため、

本ブログ説はここに述べても全くの奇説に見える

だけに、なってしまっているという訳である。
 しかし、戦争は国家間でするものであり、対立
国家には、

それぞれに王が居るので、中世天皇家の小将棋ゲー
ムが双王でも、冷静に考えると違和感など無い。

だから”玉/王1:1かつ、王将上手説”に、も
ともと大きな説得力など無いと、考えられるので
ある。

2つ王が居るとおかしいという洗脳力が、いかに
強いものか。

繰り返して主張されると、整合性の乏しい説も、
さもさも、尤もらしく思えて来るという一例だと、
本ブログでは、当然考えている。
 更に3番手の史料として西暦1595年宣明暦
5月5日の、朝廷の女官の日記、”御湯殿上日記”
に、秀吉の大将駒の提案をした旨の、朝廷への報
告の記録が載っていて、

豊臣秀吉が、玉将に言及して居ない

という点も証拠である。これは当時の天皇家で、
小将棋を指すときに、玉将を使用していなかった
証拠であると本ブログでは見ている。後陽成天皇
の、豊臣家への問いは、”昨今は皇族も、たいそ
う質の良い、水無瀬兼成駒を使用するようになっ
た。だが、そもそも皇族の玉は、特に小将棋につ
き玉将ではなくて、王将なのが、院政時代からの
流儀である。将棋の一番大事な駒に関して、皇族
は王将×2を今後も使用すべきかどうか、豊臣殿
は、どう御考えですか?”が、具体的質問内容だっ
たと私は推定する。
 つまり後陽成側は”水無瀬兼成の双玉は摂関流
であり、上皇流ではない”と、言っていることに
なり、天皇家で安土桃山時代末まで、双王小将棋
が残存していた証拠と推定できると、本ブログで
は独自に考えたというわけである。
 今の天皇家に、こうした話が残って居ないのは、
血筋が途絶えて、閑院宮家流に天皇が継承された
江戸時代に、前記記憶が、将棋の家の既存在から
当然の如く不要となって、失われたからであろう
というのが、ここでの見方だ。
 今の所、史料としての根拠は以上の3点である。
特に関西の出土駒については、王将の王の書体が、
”本当は玉で、無理やり王にさせられているのだ”
という心の叫びがあるかのように、真ん中の横棒
が、下に下がっているように見える点を含めて、
それだけだと考える。むろん本ブログでも、本件
については、更に証拠が無いかどうか、今後も調
べるつもりで居る。(2020/02/07)

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