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刀伊の入寇を国家戦と見た藤原隆家主張は通る(長さん)

本ブログでは、日本の平安小将棋の流行りは、
藤原隆家の後一条天皇への説示の、ほぼ一言
が発端だという事になっている。刀伊の入寇
は、対外国国家間戦争の一環であり、将棋は
それを模したものであって、帝、皇族の将、
征夷将軍にとって、必要な武芸であるという
主張である。古代インド、バルダナ朝の、
ハルシア王伝説とも合っているので、説示の
内容として、そもそもの違和感は無いのだが。
実際には刀伊の入寇は、女真族の大規模海賊
によるものであり、国家間戦争とは、女真国
が11世紀には存在しないので、厳密にはみ
なせない。
 にもかかわらず、双方に玉駒があるゲーム
が、海賊討伐作戦にまで役立つと、藤原隆家
が主張して通ったのはなぜなのか。本ブログ
の仮定に、今述べた点で矛盾が無いのかどう
かを論題とする。回答から書く。

矛盾は無い。新羅の入寇が、遣唐使を廃止
する頃にあり、新羅国は基本的に日本と百済
敵国。それに対し日本と高麗の関係は中立だ
が、両者が急速に関係悪化した局地戦に準え
れば、刀伊の入寇のような戦闘がそれに当る
と、言えなくも無いから

である。
では議論を開始する。
 現場の戦闘の具体的な内容は、

西暦1019年の刀伊の入寇と、西暦894
年前後の寛平の韓寇とさほどの差は無かった

と考えられる。

高麗と日本の戦争は、歴史上ほぼ無かったが、
友好関係は、百済と日本よりは下、新羅と日
本よりは上、渤海と日本の程度だったと、
高麗国そもそもの建国経緯からみなせる

だろう。だから、

藤原隆家が、刀伊の入寇を寛平の韓寇に準え
ても、後一条天皇等には、へんだとは当然
感じられなかった

のではないか。
 つまり、賊が百済の賊であり、百済と日本
との間の国家間戦争に、原始平安小将棋が
準えられたのだとしたら、後一条天皇も、
藤原頼通も、藤原実資も変に思うのだろうが。
対日関係は並である高麗の海賊は、国王の
命令とはとても思えないにしても、
西暦1001年や、話をしている最中の、
西暦1020年12月頃にも、日本に押し寄
せていたと、web上には出ている。
藤原隆家は”太宰府では平素から、こうした
問題に対処していている”という意味で、述
べたのであろう。
だから、

女真海賊と高麗海賊をいっしょくたんにして
藤原隆家が論じても、日本では統一新羅王の
関与を疑っている、西暦894年頃の”
寛平の韓寇”を覚えていてくれてさえいれば、
それなりの説得力は有った

のではないかと私は考える。
 なお藤原実資は「小右記」で、西暦1001年
の海賊を”高麗国の賊”と敢えて明確化して
いるとされ、対朝鮮半島王国間戦争を、従来
より懸念していたと取れる証拠が有る事が判る。
 よって、

高麗国と日本との国家間戦争を最悪のケー
スは想定

し、それに備える意味で、武芸に励むのが
道理だと、藤原隆家が、他の朝廷メンバー
にも伝わるように、後一条天皇に説示したら、

おかしな話だと、感じる者はほぼ無かった

のではないかと思える。よって、刀伊の入寇
に対処するために、玉駒が2枚有り、国家間
戦争を明らかに模したものである小将棋に励
む事は、刀伊の入寇を首尾よく鎮圧した例か
ら見ても、一般的に日本の防衛に寄与したと
主張して、当時の上流階級・貴族層に通るの
は明らかだと、私は以上のように考えるので
ある。(2020/02/13)

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