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摩訶大将棊図と大阪京絹商人息子とは関連(長さん)

以前に、”2019年6月より少し前に、
大阪電気通信大学の高見友幸氏が、大阪
の将棋家の田中賢一氏が所持している、
寛文12年(西暦1672年)成立の
『摩訶大将棊の図』を見出し『新発見史料』
として紹介している”との話題を本ブログ
ではした。
 たいへんうっかりしていたが、この史料
の執筆者とみられる、”亮隆基”と、

井原西鶴とは何らかの繋がりがありそうだ。

というのも、相当前に本ブログで紹介した
増川宏一氏の著書、日本遊戯思想史、
平凡社、(2014)によると、17世紀
に井原西鶴が、彼の友人かどうかは不明だ
が、”知人に京絹の商人が大阪におり、そ
の息子が賢い子供で自分の家で、

『大大将棋』というゲームの盤駒を自作し
て、熱心に遊んでいた”

と、自身の”新可笑記”の中で書いている
とされるからである。つまり井原西鶴の
新可笑記のこの記載を、増川宏一氏は、自
身の成書の、日本遊戯思想史にて紹介して
いる。そして問題の大阪の京絹の商人の息
子は”道路の四つ角の道端に仏像が安置さ
れている、小さいお堂のような場所で(恐
らくその自作の駒数多数将棋類の将棋道具
を置き)通りがかりの人間に声を掛けては、
一緒に指していた”等と、井原西鶴は更に
詳しく、記載しているらしい。
 少なくとも本ブログでは、仏教との関連
が明白な摩訶大大将棋の方が、大大将棋よ
り、仏教施設の一種である小さいお堂で遊
ぶには、ゲーム種としてはより適している
とまえにも書いたように見ている。よって、

亮隆基(”基”との私の読みは怪しい)と
いう人物は、京絹の商人の息子本人か、ま
たは、彼と共に大阪で、17世紀にお堂で、
駒数多数将棋を遊ぶ、仲間かの何れか

ではないかと、疑った方が良いように私は
思う。
 以上の事は、”京絹”から、うっかり
京都の人間を連想してしまい、居住地を
チェックしなかったために、私には気がつ
くのに、だいぶん時間が掛かってしまった。
将棋家の田中賢一氏から聞き取って、判る
かどうかは謎だが。

井原西鶴が話題にする程度なら、西暦
1672年頃には、大阪でこの”大大将棋
研究グループ”は、かなり著名

だったのだろう。亮隆基の正体がわかり、
かつ、それなりに将棋類の研究者として
信憑性があるとなれば、史料の価値は更に
上がるだろう。よって今後、この件につい
ては新可笑記との関連性のチェックが必要
な事は、明らかなように私には思える。
(2020/03/25)

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