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如何にしてトルファンではシャトランジと囲碁が共存(長さん)

以前述べたように北宋代に天山ウィグル国の支配地
内だったとみられる、トルファンでは、囲碁と
イスラムシャトランジが共存していたと見られる、
史料がある。大内延介氏、西暦1986年メコン社
の、”将棋の来た道”84ページと85ページの写
真で示された、ウルムチ博物館所蔵の、囲碁を打つ
中国美人画と、”象棋盤”出土品の対である。
本ブログの、囲碁とイスラムシャトランジの非共存
論にとっては、

致命的となりかねない史実

である。今回は、囲碁の存在下で、ゲーム性に難の
あるイスラムシャトランジが指されたり、回教の戒
律で、占いが禁止されているはずなのに、囲碁が同
時に打たれたとか見なし得ない事実史料が、いった
い何故有るのかを、

本格的に問題にする。

結論から書く。

イスラムシャトランジが先行して流行った場合は、
イスラム圏の辺境で、中国暦法にポジティブな、
純粋回教国では無いとみられる天山ウイグル国では、
囲碁が受け入れられたとみられる。

では、論を開始する。
 大概の場合はそうだが。歴史的に発生が、象棋よ
りも早かった囲碁の方が、日本や中国を例に取れば
そうだが、先に有り、そのあとでイスラムシャトラ
ンジ等、将棋・象棋が入ってくるパターンだったと
考えられる。
 しかし、仮に天山ウィグル国では、中国暦法に
転換する前にイスラム暦を使用しており、トルファ
ン付近では、唐王朝の中期以降になって、中国暦が
入り、囲碁も玄宗皇帝の時代以降に入ったとしたら、
イスラムシャトランジの方が、囲碁よりも早い事に
なる。
 そこで、日本や中国とは異なり、ウィグル自治区
の今の住人に関しては、囲碁の伝来がたまたま遅かっ
たと仮定してみる。
 そうすると、イスラムシャトランジが相当に指さ
れる状態で、唐物として囲碁文化が入り、唐美人画
が描かれると同時に、当地の上流階級を中心に、囲
碁が打たれる事になろう。慣れれば、囲碁に比べて、
イスラムシャトランジが、ゲームとして貧弱なのは、
たぶんゲーマーには、判って来るのであろうが。

相当にゲーム性に関し囲碁との間に差の有ったとみ
られる、六博の例から見ても、惰性でしばらくは、
イスラムシャトランジが消えなかった

のではないか。つまり、天山ウィグル国地帯の彼ら
にとって、イスラムシャトランジは、新たに受け入
れるか無視するかを選択をすべき文化なのではない。

既に有るので、否定されれば、痕跡も残らないとい
う質の文化では無かった

のではないかと、一応疑える。たぶんだんだんに、
囲碁に、そして宋王朝時代には、タクラマカン砂漠
で出土例があるように、中国シャンチーに転換して
いったのではあるまいか。
 つまり、たまたま囲碁の伝来が、大きく遅れると
言う事が仮にあって、イスラムシャトランジが社会
に、それ以前に定着していたという、特殊な社会で
は、

日本や中国の囲碁文化とは経緯が異なるので、囲碁
とイスラムシャトランジの史料が、共出土するとい
う事が、もしかすると有るのかもしれない

と、私は疑ってみようと思った所である。(2020/05/27)

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