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トルファンの史料で誰が囲碁打ちで誰が象棋指しか(長さん)

以前に述べたように、出土地点がトルファンとい
う街であって共通な史料、囲碁打ち美人図と、
イスラムシャトランジ(?)の象棋盤出土物が
ある。これらは、イスラムシャトランジが盛んに
指された後で、ゲーマーへ囲碁が伝来したケース
には、同じ街で出てくるという事実が説明可能か
もしれないという事だった。つまり、囲碁の伝来
が、”異常に遅ければ良い”という意味である。
 では、史料の成立順序として、

仮に、囲碁打ち美人画が8世紀で、出土象棋盤が
9世紀だったとしたら、それでも説明出来るのか
どうか

を、今回は論題にする。回答から書く。

出来る

とみられる。

出土象棋盤のイスラムシャトランジ指しの民族が、
西暦840年頃まで、ウィグル自治区ではなくて、
モンゴル共和国に住んでいた遊牧民なら良いから

である。では、論を開始する。
重要な点は、囲碁打ち美人画は、日本の奈良時代
の絵画と顔が似ていて、8世紀成立がほぼ確定す
るという事である。それに対してウルムチ博物館
の解説が正しいとすると、出土象棋盤は、7世紀
から9世紀の間のものである。だからこのケース

囲碁が早くて、イスラムシャトランジは遅い

のではないかと疑われる。
 それにそもそも、イスラムシャトランジを指し
たのは、

ウィグル族と見られるが、トルファンに彼らが
やってきたのは、西暦840年のギルギス族との
戦闘の敗北が原因で、モンゴル共和国内から追い
出された為

とほぼ確定し得る。漢人がイスラムシャトランジ
を指した跡とは、他に中国国内から同様な出土象
棋盤が見当たらないため、考えにくいからである。
 つまり、

囲碁の美人画は、唐王朝の最盛期で、トルファン
を支配していた、当地最盛期の漢族が囲碁を打っ
ていた事を示す史料

だと考えられる。それに対して、

象棋盤の出土遺物は、晩唐の時代に唐王朝の支配
力が低下した局面で、キルギス族との戦闘に、た
またま負けて、トルファンへ逃げてきたウィグル
族が、イスラムシャトランジを指していた事を示
す史料

だと考えられる。
 つまり、出土していないが、

更にウィグル族は10世紀になると漢民族の暦文
化圏に吸収されて、イスラムシャトランジは指さ
なくなって、囲碁を打っていた

と考えられる。以上の事から、
トルファンでのイスラムシャトランジ盤の出土物
は、ウィグル族が、モンゴル共和国に居て、突厥
国の支配を受けていた時代に、マニ教と共に、
ペルシャから象棋(具象駒型で、イスラムシャト
ランジ)が伝来して、8世紀にはイスラムシャト
ランジを指す民族になっていたという事を示す。
更には、西暦840年にモンゴル共和国から、
ウィグル自治区のトルファンに遊牧民のウィグル
族が

流入したから、そもそも象棋盤が有る

という事を、同時に示すと考えられる。
 そのため、
囲碁の美人画の方が早いが、このケースは、 

トルファンに当時の”異民族”が西暦840年に
流入したので、囲碁と象棋が共存し、かつ時代の
後先が逆であるかのような史料が出る

というケースであるとみられる。

トルファンへウィグル人が移民して、天山ウィグ
ル国が出来ると直ぐに、唐の暦文化は西暦840
年より直ぐ後から、ただちに流入した

であろう。しかしウイグル人という民族にとって、
初期には突厥国に支配され、モンゴル共和国内に
居て、今のウイグル自治区に、いたわけではない
8世紀に、ペルシャの具象駒型の、
イスラムシャトランジ文化が入ってから、既に
100年経っていた。ので、西暦840年から流
入した囲碁文化は、その後だったのであろう。
 そのため、

ウィグル族は、後に囲碁を打ったが、それが入る
前の初期に、イスラムシャトランジを指した

のではないか。
 以上の経緯をまとめると、囲碁の美人画は、
トルファンが唐王朝全盛期で、漢民族が住んでい
て囲碁を打っていたから、8世紀に描かれたので
あり、象棋盤とは、唐が衰退して街が廃れた後、
流入したウィグル人の使ったものというふうに、
所有者が別である。なので後先が逆でもウィグル
人にとって、イスラムシャトランジが先で、囲碁
が後という順序には影響が無い。その為、

囲碁の美人画が8世紀で、イスラムシャトランジ
の象棋盤が9世紀で、後先が逆でも、このケース
には、たまたま矛盾が起こらない。

以上のような事になっていると、私は考えるので
ある。(2020/05/28)

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