富山市清水堂南遺跡不成銀将は双六盤と至近出土(長さん)
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(山形県天童市
・天童市将棋資料館・2001)2003年に、
以下に紹介の、発掘調査報告書も含めて記載さ
れているが、富山県富山市清水堂南遺跡の西暦
2001年前後に発掘された成り不明銀将駒は、
実は、
盤双六の盤と互いに1km弱の距離の範囲
内で、出土している
事が、以下の発掘報告書の85ページ付近で述
べられていた。
富山市埋蔵文化財調査報告113
富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘報告書
2001年
富山市教育委員会。
上記発掘調査報告書は奈良文化財研究所の、
全国遺跡報告総覧のデータベース(urlは、
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja)
の中にもある。pdfファイル名は、以下の通
りである。
13696_1_富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘調査報告書.pdf
なお、将棋駒”成不明銀将”のスケッチが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の図と同じで、
”(参考)富山市清水堂南遺跡の銀将駒”とし
て、同報告書の、86ページ第50図にもある。
双六盤は、巻頭のカラー写真で同発掘報告書
に紹介され、本文中に出土状況、成立年代が、
16世紀中ごろから後半にかけて(安土桃山
時代頃)である事が記載されている。また厚盤
としては最初の発見であった旨が、同報告書の
84ページに、遊戯史学会理事、増川宏一氏名
で解説がある。成り不明銀将駒と共に、双六駒
と疑われる物品が、富山市清水堂南遺跡から
出土しており、増川宏一氏は”特定同一セット
の盤駒とは有る程度距離があり到底思えないが、
双六盤駒が同一地帯から出土した可能性が高い”
と論じている。言い忘れたが前記発掘報告書に
は、増川氏が指摘した、双六駒と疑われる物も、
スケッチがある。
この双六盤については、発掘された日本列島
等でも、紹介されていたように、私は記憶する。
地図を開けば判った事だったのかもしれない
が。従来より知られていた、富山市清水堂南遺
跡の銀将駒と、富山市水橋金広遺跡発掘の厚板
の双六盤は、成立時代がほぼ一緒でかつ、発掘
場所も、極端には離れておらず、更には将棋駒
といっしょに、双六駒が出土していた可能性が、
高いとの事のようである。
富山市市街が戦国時代以降にぎわっていた事は、
少なくとも確かだ。(2020/06/22)
・天童市将棋資料館・2001)2003年に、
以下に紹介の、発掘調査報告書も含めて記載さ
れているが、富山県富山市清水堂南遺跡の西暦
2001年前後に発掘された成り不明銀将駒は、
実は、
盤双六の盤と互いに1km弱の距離の範囲
内で、出土している
事が、以下の発掘報告書の85ページ付近で述
べられていた。
富山市埋蔵文化財調査報告113
富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘報告書
2001年
富山市教育委員会。
上記発掘調査報告書は奈良文化財研究所の、
全国遺跡報告総覧のデータベース(urlは、
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja)
の中にもある。pdfファイル名は、以下の通
りである。
13696_1_富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘調査報告書.pdf
なお、将棋駒”成不明銀将”のスケッチが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の図と同じで、
”(参考)富山市清水堂南遺跡の銀将駒”とし
て、同報告書の、86ページ第50図にもある。
双六盤は、巻頭のカラー写真で同発掘報告書
に紹介され、本文中に出土状況、成立年代が、
16世紀中ごろから後半にかけて(安土桃山
時代頃)である事が記載されている。また厚盤
としては最初の発見であった旨が、同報告書の
84ページに、遊戯史学会理事、増川宏一氏名
で解説がある。成り不明銀将駒と共に、双六駒
と疑われる物品が、富山市清水堂南遺跡から
出土しており、増川宏一氏は”特定同一セット
の盤駒とは有る程度距離があり到底思えないが、
双六盤駒が同一地帯から出土した可能性が高い”
と論じている。言い忘れたが前記発掘報告書に
は、増川氏が指摘した、双六駒と疑われる物も、
スケッチがある。
この双六盤については、発掘された日本列島
等でも、紹介されていたように、私は記憶する。
地図を開けば判った事だったのかもしれない
が。従来より知られていた、富山市清水堂南遺
跡の銀将駒と、富山市水橋金広遺跡発掘の厚板
の双六盤は、成立時代がほぼ一緒でかつ、発掘
場所も、極端には離れておらず、更には将棋駒
といっしょに、双六駒が出土していた可能性が、
高いとの事のようである。
富山市市街が戦国時代以降にぎわっていた事は、
少なくとも確かだ。(2020/06/22)
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