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なぜ玄怪録の岑順が肩入れした軍隊は金象将軍軍か(長さん)

晩唐の時代に、伝えるところによけば政治家
牛僧儒が書したという玄怪録の、岑順の物語り
中で、主人公の岑順に取り憑いた亡霊軍隊の名
は、金象将軍の軍隊という事になっている。
これは本ブログでは金銀将軍をもじったもので、

宝応将棋の王と大臣が、金将、銀将という名称
であった事から来ている

と推定している。なお、簡単に言うと、この時
代の金将は玉将、銀将は金将と本ブログでは見
る。後に宝応将棋に玉将が入って、役割が1つ
ずつズレ、日本の平安小将棋(原始8升目型)
になったと見るのだ。だが、銀将のはずの大臣
駒を、象駒と混ぜて象将軍と作者が呼んでいる
点については、作者の御ふざけであろうという
程度に解釈して、今まで厳密には議論して来な
かった。
 そこで今回は軍隊の名称に関して、大臣駒と
象駒がごちゃまぜになっているのは、どういう
事情と推定できるのかを議論の対象する。
 回答から書く。
インド系将棋は、9世紀にはインドで象軍が
廃れたため、象駒は象で表されなくなり、代わっ
て大臣駒の乗り物として、造形上、将棋の雰囲
気を醸し出すため、象が使われるようになった。
そのため、

宝応将棋では大臣は、駒の造形上”象将”と呼
んで相応しいように、(伝)牛僧儒に見えた為

である。
 では、議論を開始する。
 象は体の大きさによらず臆病なため、敵に体
当たりさせようとしたときに、戦いの際生じる
大音響によって、怯えて制御が利かなくなり、
武器としての機能が失われやすいと私はweb
上等で認識している。ローマ帝国時代の戦いで
得られたそうした経験は、ペルシャを通って、

インドには9世紀には届いていた

とみられる。少なくとも15世紀頃に成立した
インドの絵画では、戦象は、武器としてではな
くて、大将の乗り物のように描かれている。そ
れより更に時代は下るが、19世紀に成立した、
今に残るインド2人制チャトランガ(新チャト
ランガ)の駒とみられる象棋駒の写真を見ると、

大臣が象に乗っており、象駒は駱駝に乗った将
として描かれているとの説明が、日本のインド
歴史に関する、以下の成書に有る。

ラージャスターン駒.gif

図説世界文化地理大百科「インド」小谷汪行編、
朝倉書店(西暦2001)、147ページ
”チェス”の写真の説明。
 つまり、今述べた説明に誤りがないとすれば、

牛僧儒が金銅製と物語り中で表現している、
こうした美術工芸品の宝応将棋駒が、その当時
実際に有って、それを牛僧儒が見ているとすれ
ば、大臣駒を銀将という正式名称では呼ばず、
象将と呼んでも、おかしくはない

という事であろう。戦象が9世紀には使用衰退
しつつあったので、駒師は、象駒で造形として
使うのではなくて、副官、大臣駒の乗り物とし
て象を掘り、将棋駒の感じを出したという意味
である。更に、象はしばしば駱駝と交換された
し、チャトランガのペルシャ伝来話によれば、
”完全なチャトランガ”は10升目40枚制で、
象と馬の間に、駱駝が有るとも取れたので、
そうした伝説の横ブレを利用して、少なくとも
19世紀には、駱駝に乗った上将の象駒をも、
写真に有るように彫ったのであろう。
 ”中国の深い山奥”の9世紀の象も、インド
の19世紀の象と同じという論法は、乱暴に見
えるかもしれないが。本ブログでは雲南の将棋
は、インドからの直線伝来と仮定されかつ、言
い伝えで、近代にも高級駒として、インドでは、
そのような上将象の有る将棋具も、作成された
のかもしれないとみれば、起こり得ない話では
無いと見る。
 このように戦象が兵器として難があり、後に
衰退したために、将棋駒を作成するときの象の
使われ方に、不合理な所があって、大臣である
はずの銀将が、牛僧儒の小説では立体駒の形か
ら来る見た目の印象から、”象将”にされても
おかしくは無い。
 以上のような経緯であったのではないかと、
私は考えるようになったのである。(2020/09/23)

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