福井市一乗谷朝倉氏遺跡40期で戦国金将駒1追加(長さん)
福井県福井市所在の一乗谷朝倉氏遺跡で第40
期の調査で、第9期調査時の大量な出土に加えて
追加の形で、飛車駒と金将駒1枚の計2枚が出土
しているという情報については、成書「天童の将
棋駒と全国遺跡出土駒」、2003、天童市将棋
資料館、の第67ページ付近に記載が有る。が、
比較的最近になり発掘報告書が出され、金将駒が
更に1枚追加になっているという情報等が有るよ
うなので、以下に紹介する。
公開の場で将棋を指すときに、複数の将棋が併
存している時代に特有の、
ゲームの種別を表示する為に使った道具では無い
かと、本ブログ管理人には疑われる、「中村胤人
は三十六指し」との意の木札が共出土している
疑いが有る。
遺物の写真がweb上に公開されていて、発掘
報告書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報告
総覧に登録・公開されている。pdfファイル名
は、以下の通りである。
140345_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調在報告17/第40次調査、
2020、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は福井県
福井市城戸ノ内町字奥間野。遺物が出土したのは、
西暦1980~西暦1981年の間ないし、その
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、従来より戦国期とみられる。
追加の金将の写真は、発掘報告書写真図版
(PL.)第68:”出土遺物その他Ⅱ遺構面”
の最下段左端に在り、遺物番号第900番との旨、
ナンバリングされている。

上図のように、従来の朝倉氏遺跡で出土した類
の厚みの薄い不成り金将駒の追加と、解釈出来る
遺物のようである。
その他、この発掘報告書には写真図版(PL.)
第62:”出土遺物E区Ⅰ・Ⅱ遺構面”の、最上
段右端に、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、
第47(第67ページ付近)の下側の「飛車」の
写真が、オモテ面だけであるが、下図のように
遺物番号第737番として載っている。

飛車であり、厚みが厚い後代の将棋駒型であり、
別の遺物番号第694番と表され、天童の将棋駒
と全国遺跡将棋駒の第47(第67ページ付近)、
右上に載っている第1金口駒と、厚みが厚い点で
同じであるとの旨の説明が、発掘報告書の第30
ページ付近に有る。町人街の僧侶宅であり、館の
博打場の関係者よりも裕福であると見られている
ようである。なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土
駒に載っている方の金口駒の写真はこの発掘報告
書では逆にヌケており、やや天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒のそれよりも粗雑な、スケッチ図だけ
が在る。
さて、それと共に、成立年代は、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒の、第1金口駒等と同じ頃のよ
うであるが、発掘報告書写真図版(PL.)第
60:”出土遺物D区Ⅱ遺構面”の最上段左端に、
下のような、遺物番号第686番とナンバリング
された木札の写真がある。発掘報告書第30ペー
ジ付近により「中村ロロ」・「さん十六さし」と
釈文されている。

オモテ面(右)とみられる中村口口は、私には
中村胤人という人物名のようにも見え、裏面は、
「飛車・角行を取り除いて、9升目36枚制の
持駒ルールの小将棋をこの局では指す」の意と私
見する。
神奈川県鎌倉市出土の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札と、同じカテゴリの物品の疑いが
残るのではないのだろうか。この方が、この回の
発掘調査では、将棋関係での大発見だった可能性
が有る。(2024/10/03)
期の調査で、第9期調査時の大量な出土に加えて
追加の形で、飛車駒と金将駒1枚の計2枚が出土
しているという情報については、成書「天童の将
棋駒と全国遺跡出土駒」、2003、天童市将棋
資料館、の第67ページ付近に記載が有る。が、
比較的最近になり発掘報告書が出され、金将駒が
更に1枚追加になっているという情報等が有るよ
うなので、以下に紹介する。
公開の場で将棋を指すときに、複数の将棋が併
存している時代に特有の、
ゲームの種別を表示する為に使った道具では無い
かと、本ブログ管理人には疑われる、「中村胤人
は三十六指し」との意の木札が共出土している
疑いが有る。
遺物の写真がweb上に公開されていて、発掘
報告書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報告
総覧に登録・公開されている。pdfファイル名
は、以下の通りである。
140345_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調在報告17/第40次調査、
2020、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は福井県
福井市城戸ノ内町字奥間野。遺物が出土したのは、
西暦1980~西暦1981年の間ないし、その
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、従来より戦国期とみられる。
追加の金将の写真は、発掘報告書写真図版
(PL.)第68:”出土遺物その他Ⅱ遺構面”
の最下段左端に在り、遺物番号第900番との旨、
ナンバリングされている。

上図のように、従来の朝倉氏遺跡で出土した類
の厚みの薄い不成り金将駒の追加と、解釈出来る
遺物のようである。
その他、この発掘報告書には写真図版(PL.)
第62:”出土遺物E区Ⅰ・Ⅱ遺構面”の、最上
段右端に、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、
第47(第67ページ付近)の下側の「飛車」の
写真が、オモテ面だけであるが、下図のように
遺物番号第737番として載っている。

飛車であり、厚みが厚い後代の将棋駒型であり、
別の遺物番号第694番と表され、天童の将棋駒
と全国遺跡将棋駒の第47(第67ページ付近)、
右上に載っている第1金口駒と、厚みが厚い点で
同じであるとの旨の説明が、発掘報告書の第30
ページ付近に有る。町人街の僧侶宅であり、館の
博打場の関係者よりも裕福であると見られている
ようである。なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土
駒に載っている方の金口駒の写真はこの発掘報告
書では逆にヌケており、やや天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒のそれよりも粗雑な、スケッチ図だけ
が在る。
さて、それと共に、成立年代は、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒の、第1金口駒等と同じ頃のよ
うであるが、発掘報告書写真図版(PL.)第
60:”出土遺物D区Ⅱ遺構面”の最上段左端に、
下のような、遺物番号第686番とナンバリング
された木札の写真がある。発掘報告書第30ペー
ジ付近により「中村ロロ」・「さん十六さし」と
釈文されている。

オモテ面(右)とみられる中村口口は、私には
中村胤人という人物名のようにも見え、裏面は、
「飛車・角行を取り除いて、9升目36枚制の
持駒ルールの小将棋をこの局では指す」の意と私
見する。
神奈川県鎌倉市出土の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札と、同じカテゴリの物品の疑いが
残るのではないのだろうか。この方が、この回の
発掘調査では、将棋関係での大発見だった可能性
が有る。(2024/10/03)
コメント 0