水無瀬宮水無瀬兼俊駒箱獅子駒に「の座」(長さん)
本ブログでは、太子、獅子、麒麟、鳳凰という将棋駒
名は、互いに関連しており、酔象、麒麟、鳳凰が、
酔象の成が不成から、太子になった後に相次いで、
麒麟に成が出来、獅子、鳳凰が成立、後に生の駒の
獅子が出来たと考えている。高位の僧侶の座る場所が、
「獅子の座」であり、釈迦は高位の僧であり、それ
に座るにふさわしいので、太子駒が有るなら獅子駒も
必要。また、偉人が出現すると共に現れる神獣が麒麟・
鳳凰と対であるから、太子があれば麒麟・鳳凰も必要
という関連であり、後者は、「摧邪輪」等に、意味が
記載等されているからである。
しかしながら、前半の太子から連想される、仏教
用語の「獅子の座」から、獅子駒の名称が由来したと
する考えは、尤もらしいものの、対応する根拠となる
史料が、これまでは特に、私には見当たらなかった。
しかるに、安土桃山時代末から江戸時代草創期成立
とみられる、水無瀬宮保管の水無瀬駒の獅子に、加筆
があり、「ハとノの重ね」+「座」という付記が在る
ようだと、本ブログの管理人には疑われるようになっ
たので、以下に史料の画像を示す。
出典は、日本の美術12/第32/遊戯具、西暦
1968年、国立博物館(東京・京都・奈良)。
その第68ページ付近に、同書の第100ページ付近
の説明によると、水無瀬宮保管の、水無瀬兼俊作成記
載駒箱に保存され、82才との銘が入った、日本将棋
と中将棋が入り混じった、日本将棋盤上に置かれた将
棋駒の群の写真が在り、その中に獅子駒が一枚在るが、
以下のような、画像が載っている。なお、水無瀬兼俊
は享年64才のようである。
上図のように「師子」の左横に小さく「ハ」と「ノ」
を両方書いた第1字目の、私にはカタカナに見える
模様が在り、その下第2字目は漢字で「座」と、私は
疑う。
「獅子の座」、「獅子駒は獅子の座から来ている」と
をかけあわせて説明したという意味
だと私は解釈する。
成立は近世だろうが。酔象の成りが太子になったと
きに、当時の形の大将棋に、「高名な僧の座」が獅子
の座であるとの連想から、麒麟の成が獅子となり、中
将棋で更に、生の獅子が導入されたとの知識が、
少なくとも、近世という、少し後世にも想定されて
いたとの証拠史料
であるとは少なくとも言えるのではないかと私見する。
蛇足だが、この獅子駒は、別の写真のコマの像が、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の第107ページ
付近にも載っている。が、日本の美術/32/遊戯具
(印刷所/半七写真印刷工業)よりも、解像度が悪い
ためのようであるが。特に第2字目の判読が困難な
ようで、私には今まで注意が行かなかったという経緯
である。(2024/12/10)
名は、互いに関連しており、酔象、麒麟、鳳凰が、
酔象の成が不成から、太子になった後に相次いで、
麒麟に成が出来、獅子、鳳凰が成立、後に生の駒の
獅子が出来たと考えている。高位の僧侶の座る場所が、
「獅子の座」であり、釈迦は高位の僧であり、それ
に座るにふさわしいので、太子駒が有るなら獅子駒も
必要。また、偉人が出現すると共に現れる神獣が麒麟・
鳳凰と対であるから、太子があれば麒麟・鳳凰も必要
という関連であり、後者は、「摧邪輪」等に、意味が
記載等されているからである。
しかしながら、前半の太子から連想される、仏教
用語の「獅子の座」から、獅子駒の名称が由来したと
する考えは、尤もらしいものの、対応する根拠となる
史料が、これまでは特に、私には見当たらなかった。
しかるに、安土桃山時代末から江戸時代草創期成立
とみられる、水無瀬宮保管の水無瀬駒の獅子に、加筆
があり、「ハとノの重ね」+「座」という付記が在る
ようだと、本ブログの管理人には疑われるようになっ
たので、以下に史料の画像を示す。
出典は、日本の美術12/第32/遊戯具、西暦
1968年、国立博物館(東京・京都・奈良)。
その第68ページ付近に、同書の第100ページ付近
の説明によると、水無瀬宮保管の、水無瀬兼俊作成記
載駒箱に保存され、82才との銘が入った、日本将棋
と中将棋が入り混じった、日本将棋盤上に置かれた将
棋駒の群の写真が在り、その中に獅子駒が一枚在るが、
以下のような、画像が載っている。なお、水無瀬兼俊
は享年64才のようである。
上図のように「師子」の左横に小さく「ハ」と「ノ」
を両方書いた第1字目の、私にはカタカナに見える
模様が在り、その下第2字目は漢字で「座」と、私は
疑う。
「獅子の座」、「獅子駒は獅子の座から来ている」と
をかけあわせて説明したという意味
だと私は解釈する。
成立は近世だろうが。酔象の成りが太子になったと
きに、当時の形の大将棋に、「高名な僧の座」が獅子
の座であるとの連想から、麒麟の成が獅子となり、中
将棋で更に、生の獅子が導入されたとの知識が、
少なくとも、近世という、少し後世にも想定されて
いたとの証拠史料
であるとは少なくとも言えるのではないかと私見する。
蛇足だが、この獅子駒は、別の写真のコマの像が、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の第107ページ
付近にも載っている。が、日本の美術/32/遊戯具
(印刷所/半七写真印刷工業)よりも、解像度が悪い
ためのようであるが。特に第2字目の判読が困難な
ようで、私には今まで注意が行かなかったという経緯
である。(2024/12/10)
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