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大将棋類の出土駒とその持ち主の氏(うじ)(長さん)

現在、出土した将棋駒のうち、最大で5箇所のものが、大将棋
ないしそれより駒の数の多い将棋の、日本の将棋類の駒と
見られている。駒の種類等から見て、大将棋類の将棋駒として
確定的なものから、かなり不確実なものへと並べると、

1)平泉駅前の遺跡より出土した飛龍駒(1枚)
2)徳島市に比較的近い、川西遺跡より出土した奔横駒(1枚)
3)栃木県小山市神鳥谷曲輪から出土した裏金角行駒(1枚)
4)鶴岡八幡宮出土の鳳凰と不成の香車駒ペアー
5)奈良興福寺の酔象駒一枚と、酔象の字の木簡1枚

のたかだか5つだけである。私見では5)は朝倉小将棋類の駒
の可能性が強いと思う。
なお、遺跡の年代は、

1)が鎌倉時代草創期、2)が鎌倉時代中期、3)が南北朝時代
4)は鎌倉時代から室町時代前期、5)は最も古く平安時代後期
と、私は認識している。

ここでは、前回述べたように、これらの駒の使い手と氏(うじ)
の関係を対応させてみる。この先説明は、そのつどしようと思う
が、ここでは結論だけを書くと、

1)は奥州藤原氏、2)はたぶん源氏(佐々木氏か、小笠原氏)、
3)は藤原氏(小山氏か、私見で宇都宮氏)、
4)は源氏(北条氏か足利氏)、5)は不明だが藤原貴族の
将棋を真似たもの、と、それぞれ私には推定される。

よって5つの大将棋類の道具のうち、約3箇所のものつまり
全体の60%が、藤原の氏(うじ)の人間の所有物か、ないしは
それにちなむと考えるのが、もっともらしいと言うことである。

 当然平安時代と異なり、鎌倉時代に入ると藤原貴族の時代は
徒然草にもあるように終わっていた。だが、なぜかその末裔は、
将棋類のうち、大将棋の類をたしなんだようなのである。更に
これと、前回の結論である、文献の中で、恐らく平安大将棋を
指したであろう、上流階級の知識人が、5人中4名程度、藤原氏
ないし、その使用人である点加味すると、

少なくとも鎌倉時代ころまでは、藤原氏の流れの人間ならば
大将棋をたしなむ必要がある

というしきたりの理由が知られていたか、あるいは、忘れられて
いるにしても、比較的強固に、そのしきたりそのものが残ってい
て、少なくともそれに従っていた藤氏系の知識人は、大将棋には
ゲームとして、たとえ難点があったとしても、それを無理にでも
指した可能性もあるのではないかと、私には疑われるという事
になる。

 残念ながら現在では、その鎌倉時代には落日の藤原氏(うじ)の
末裔が、「しきたりで、大将棋等、駒数の多い将棋を指した」
経緯については、記録が残っていない。たとえば、水無瀬兼成著
の将棋部類抄にも、氏と駒数多数の将棋を指す棋士との関係が
記載されている訳でもない。これより後代の将棋の著書は、
成文化された情報としては、この著書が、ほぼ唯一であったため、
戦国時代を生き残った日本の将棋の情報を集めた、将棋部類抄に
記載が無ければ、残念ながら他に情報は無いに等しかった
ようである。なお、兼成の苗字である”水無瀬”が、そもそも
藤原隆家関連の藤原の姓であるから、水無瀬兼成自身は、「藤原
氏の子孫なら大将棋は指すべき」と、なぜ言い伝えられたのか、
その事実そのものと、さらにその理由を知っていたのかもしれ
ないと思う。実はそれが、藤原一族にとってネガティブな内容、
つまり、たとえば「8×8升目制の原始平安小将棋しか指す能力
の無い、中国等の大陸の人間より劣った人間として、日本人の
中でも、特に平安時代中期の藤原貴族の頭領がイメージされて
いた」というような事でも万が一あれば、藤原氏の末裔である
兼成が、自身の著書には、当然その内容は書かず、黙々と
駒数多数将棋の著書だけを残した理由にはなるのではないかと、
実は私は疑っているというわけである。(2016/11/13)