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麒麟抄の「将棋駒記載部分」の評価(長さん)

聞くところによると麒麟抄は最近、平安時代の文献として
間違いであり、「この書に基づいて、平安期の将棋の状況を
語る事には根拠が無い」との指摘が、強まっているようで
ある。つまり成立年と著者が、どうも偽情報らしいと私も
聞いている。が、私の解釈では、この書の「将棋駒の成り
の記載について、一文字『金』を習字する」部分について、

南北朝時代の、成りのルールについての情報が含まれると
いう意味で、無名著者によって発信された、なおも有力情報
で有り続けているのではないかと、評価している。

確かに、「西暦1019年に将棋存在」というパラダイムは、
根拠が揺らぐと、日本にネアンデルタール人が住んでいた
とは証明できなくなったのと似て、その議論としては疑問視
されたのかもしれない。しかし麒麟抄の将棋部分が、平安
時代以外の、たとえば南北朝時代に、その時代の常識を知
る、無名人によって書かれたのが確かとなれば、たとえば
南北朝時代の将棋の状況に対する情報源には、なおもなる
だろうと思えるからである。つまり麒麟抄には、平安時代
ではないにしろ、本当に執筆された時代の、将棋事情に
関する情報は含まれるため、間違いなら以後将棋史学会では、
無視して良いとまではいかないのではないかと、私は思う。
 前回までのところで私は、大将棋の成りについて、
平安大将棋時代は、2段目の中央部以外は全部金成り。
後期大将棋成立時は、ひょっとすると金将に成る駒全く無し、
と述べてきた。前者は、私によると鎌倉時代草創期を中心
に指された将棋であり、後者は室町時代前期に指された
将棋である。
 単純に、この2つのゲームを比較すると、駒が金に成る
ケースは、単調に減少したとしか結論できないように見え、
西暦1200年から西暦1450年の250年間を全体と
して見れば、金成り単調減少と目下のところ考えざるを得な
いと私見する。

しかし、麒麟抄の記載は、これとは完全には合わない物であ
る。

つまり南北朝時代の西暦1330年から1390年の間だけ、
単調減少のグラフの中に、「駒が成ると、ほとんどの駒が、
『金一文字』という、『異常ピーク』が生じる時代」が、
現実として孤立して、有ったとしか思えなくなる。

麒麟抄が平安時代の文献として偽でも、最近作られた偽の
話ではなくて、南北朝時代には実際に成立した書で、誰が
書いたにしても習字の部分は、本当のことだったとしたら、
それが著書全体としては「出所に関して人を騙すことを
目的とした悪書」で最悪あったとしても、

先にのべた13×13升目 104枚制の、普通唱導集時
代の大将棋が、たとえば、

西暦1300年には、酔象が太子成り、麒麟が獅子成り、
鳳凰が奔王成りは変わらないとして、歩兵だけが金成り
程度の状態から、

西暦1345年には、歩兵だけでなく、玉・金・酔象・
麒麟・鳳凰・奔王および、ひょっとして龍王・龍馬を
除いてすべてが『金一文字』に成りが変わり、

西暦1390年には再び、酔象が太子成り、麒麟が獅子成り、
鳳凰が奔王成りは変わらないとして、歩兵だけが金成り程
度の状態に、また戻ってから、後期大将棋の方向へ変化し、
中将棋と対抗した。

とでも、考えなければならなくなる等の影響がある、重要
文献で有り続けるのである。もっとも、
麒麟抄だけに、駒数多数系将棋の成りに関するヒントが
あるだけなら、この情報は、小将棋に関するだけのものか、
あるいはノイズとして、切り捨てても良いのかもしれないが
実はそうではない。実際には、南北朝時代の別の文献、
異性庭訓往来の「360の数字に関連する多いもの(将棋)」
に対応するとみられる、摩訶大大将棋と泰将棋が、
安土桃山時代の将棋部類抄以降、飛車、角行、竪行、横行
等が「一文字」金に成る将棋として伝わっており、南北朝
時代を基点とすると疑われる、192枚や354枚制の
きわめて駒数の多い将棋は、強い駒まで、異常に金に成る
事が多いという点で、麒麟抄の記載と調子を合わせている
のである。

さらには最近、西暦2007年になって、南北朝時代の
武将、小山義政の館跡と目される、栃木県小山市神鳥谷
曲輪にて、角行裏一文字金の古形の将棋駒が一枚、単独
で実際に発掘された。

目下のところ、この駒は摩訶大大将棋で、成りに金翅を
含まない一亜種の、聆涛閣(れいとうかく)集古帖の
の「摩訶大将棋」か、水無瀬兼成の将棋部類抄の、文献
限定摩訶大大将棋か、将棋部類抄では大大将棋の成りに
は合わせないとしたときの泰将棋の、角行駒とすると整
合性がある。しかし、普通唱導集の時代から、室町時代
の初期、足利義満の時代の大将棋の、成りの進化につい
ての知見が増えると、将来的には、ここでのべた仮説の
「西暦1345年型13×13升目、104枚駒程度の
普通唱導集大将棋亜種の駒」の可能性も、あるいは
出てくるのかもしれない。それを示唆するのが、麒麟抄
の成りの習字と、異性庭訓往来の一年の日付にちなんだ、
きわめて駒数の多い将棋の記載、将棋部類抄の摩訶大大、
泰将棋の、成り駒規則とが整合するという、三つの知見
が組み合わされて、関連付けられているためで、その要
素の一つの麒麟抄の、「成り駒は崩し字金(一文字)」
記載は、今もたいへん重要な、知見を含むものと私は考
えている。
 なお、前記、小山市神鳥谷曲輪に、大将棋も指せそう
な藤原氏(うじ)の武将の頭目、小山氏の頭領小山義政・
家族等が終結したのは、第2次小山義政の乱のあった、
西暦1381年の年末の事だったと、私は聞いている。
ちなみに埼玉県にある、鷲宮神社の棟札の記録によると、
小山義政は正妻の小山よし姫も、藤原氏(うじ)だった
という。南北朝時代の大将棋系も、藤原氏の末裔が指し
た例があるようだ。高価な中国・明の国の磁器破片も、
いっしょに出土している場所だから、たぶん「小山義政
ら家族が、そのころそこに居た」で間違い無いのだろう。
 また、他の出土駒としては、鎌倉時代から室町時代
初期のものと、時代の不確定性の幅が広く、大将棋だっ
たとしても、前記1300年型か1390年型かは判定
できないが、鶴岡八幡宮の「奔王に成る鳳凰駒、金に成
る歩兵駒と一緒に出土した、不成りの香車駒」がある。
 以上のように、たとえ平安時代の将棋史の資料として
の価値が希薄になり、出所に関して、調査する人間にと
って元著者に、正体を惑わそうとする悪意がたとえあっ
たとしても、実際の執筆年代がわかるのであれば、無名
作家の麒麟抄に、将棋史に関する情報がある以上は、そ
の作者に騙されたと気がついても「以降は無視する」と
いう、わけにはいかない将棋史重要文献なのではないか
と、私は麒麟抄については考えるのである。(2016/11/27)