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後期大将棋と中将棋の成立の後先(長さん)

 将棋の文献では南北朝時代に、中将棋の記録が初めて現れる
が、西暦1300年付近で、普通唱導集の大将棋が、15×15
升目制、大将棋とは別のゲームだとすると、後期大将棋と
中将棋とで、どちらが先なのかが、気になってくる。
 前回までに、中将棋も後期大将棋も、同じ13×13升目制
普通唱導集大将棋から変化したものと私は述べたから、それを
前提にすると、つまり

どちらも、並走して出来たことになる。

 ただ、中将棋が前向きなゲーム改善だったのに比べて、
大将棋で後から加わったと推定される駒名で、平安大将棋の
時代の駒の字に無い、新規性の高い名称の駒に、ゲームを
改善しそうな強い駒名が無く、小駒ばかりである点が
顕著である。そのため獅子を入れ込むためにできた隙間を、
形式的に埋めるため、すなわち、

「中将棋の成功に引きずられて、後で合わせた」感を
我々後世の人間に、どうしても感じさせてしまっている。

 中将棋の成立が、後期大将棋よりも少し早そうであるという、
別の根拠としては、獅子の入れ込み方のパターンもあると思う。
麒麟の成りが獅子、鳳凰の成りが奔王であるから、

麒麟と鳳凰を2段目、そのすぐ前の升目に、それぞれの成り
である獅子と奔王を並べて配列するというやり方は
「いかにも最初は、誰でもそうするだろう」という配列

だと思う。
言うまでも無く、後期大将棋では、麒麟の成りの獅子は、
麒麟の横、鳳凰の成りの奔王だけ、その前の列に置いて
いて、やや不規則なものがある。
ただし、私見であるが、
中将棋の成立期に、金に成ったと疑われる竪行の成りが
飛牛に変わったのは、少なくとも15升目制へ大将棋が
変化した後だと考える。

つまり、中将棋はその最初期には、現在の小駒が走り駒とか、
走り駒が、もっと強い走り駒へ成るというゲームには、
なっていなかったのではないか、

と、私は疑っているという事である。
 恐らく南北朝時代には、成り駒が金だとか、「龍王や龍馬
が、飛鷲や角鷹成りではなくて不成り」の中将棋が指されて
いたのではないか。そして、
室町時代に入ってしばらくして、大将棋が13×13升目
から、15×15升目に変化してのちに、
竪行の成りが金から、飛牛に成る等、意外なほど後になって
今の成りに変わったと私は推定する。
 根拠は、今述べた「飛牛」の名称にある。「牛」の字が
15×15升目の将棋に大将棋がなってから、初めて出て
くると疑われるだけでなく、飛龍の「飛」の字をつけて
いるので、飛牛は、「飛龍」と「猛牛」とが、ペアーで
ある将棋を知っている人間で無いと、考え出しにくい名前
だと私は思うからである。
つまり、駒名「猛牛」が無い時代に、飛牛という駒名を
考えるのが困難な事、つまり13×13升目制の大将棋に、
「牛」駒が無かったと推定される事から、

西暦1400年過ぎの時期に、15×15升目の少なくと
も後期大将棋に近い大将棋が成立し、その将棋には猛牛が
初めて加わった結果として、中将棋が、成りも含めて成立
したと推定する。

なお、19×19升目で5段目が、中央から奔王・鉤行・
龍王・龍馬・角行・竪行・横飛・横行・右車・飛車等と並ぶ
192枚制の摩訶大大将棋は、後期大将棋に、製作過程の
近い配列の将棋であるため、後期大将棋の時代のものと、
私は推定する。つまり、この将棋の駒の成りに、たとえ金
が多くても、
6段組タイプの摩訶大大将棋は、実は南北朝時代には無く、
中将棋の獅子が、性能に関し、ようやく脚光を浴びるよう
になった室町時代に入ってから、初めて成立したのではな
いかと私は疑う。つまり

摩訶大大将棋の飛車・角行等金成り部は、安土桃山時代の頃
になって、この将棋の成立時代を、異制庭訓往来にひっかけ
て南北朝時代の雰囲気を出し、少し早く見せかけるために、
オリジナルを改変した、後世のでっち上げ記載と、私が疑っ
ているという事である。そしてこの将棋は、安土桃山
時代に記録が確かに有るが、実際には、南北朝時代には
存在せず、室町時代前期に、成りがぜんぜん違う形で、
同じ初期配列の将棋として実在したのではないかという事だ。
つまり本来、摩訶大大将棋の飛車・角行は不成りの
15×15升目制後期大将棋に近い方が、もともと初期
配列の形からみて自然なように、私は思う。

栃木県小山市で「青蓮寺の尼が、実家から持ってきた三面
の類の嫁入り道具(?)」に含まれる、裏金一文字角行駒は、
それが本物だとすると、かえって、現在我々の知っている
19×19升目、192枚制摩訶大大将棋では、しっくり
とはしない、未知のゲーム用の可能性が高くなり、文字通
り、謎の将棋種用の駒である事に、なってしまうのではな
いかと、私は推定する。(2016/11/30)