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埼玉県越谷市増林城ノ上をチェックする(長さん)

 既にのべた、焼津駒を出土させた、小山氏の関連氏族の
小川氏・長谷川氏は、遡れば下河辺行義で合流し、その次男
下河辺政義の子孫が奈良県田原本町ゆかりの長谷川党と同じ
名の、長谷川氏である。そして下河辺政義の兄で、下河辺の
嫡男となる下河辺行平の系統は、埼玉県北葛飾郡松伏町付近
に館を作って鎌倉時代の中期に住んでいた、といわれている。
 実は、ネットに出ているが、この館は場所が良くわかって
いない。埼玉県の松伏町の下赤岩にある、香取神社付近が、
候補に挙がっている。が鎌倉時代後期には、下河辺の本家は、
北条氏の得宗専制の下で、鎌倉幕府の官職として吸収されて
しまったために、鎌倉時代後期に鎌倉に一族は移ったとみら
れている。そのため館跡は消失し、場所が特定できないので
ある。松伏町下赤岩の香取神社というのも、近くに古利根川
が流れていて、常識的に要衝だと考えられる点と、字地名に、
館跡を連想させる”屋敷附”があるという程度で、確証は無
いとされる。
 たとえば、この松伏町赤岩から2km程度西にも、埼玉県
越谷市増林の字地名で”城ノ上”という所があって、城跡の
ようにも感じられる。越谷市の城ノ上は、徳川家康が鷹狩り
をするために、滞在施設を、江戸時代初期に建てたことに、
由来すると、webには出ている。が滞在施設に”御殿”等
ではなくて、”城”という地名が付いた、云われは良くわか
らない。それはひとまず置くとすれば、こちらが、本物の鎌
倉時代の館かとも、ぱっと見の名称からは、想像はされよう。
 なお、鎌倉時代中期時点で、下河辺一族の一部が、奈良県
の初瀬川流域に移り住んだとの、確実な情報は無い。だから、
埼玉県南部の、下河辺氏本家の館と、摩訶大大将棋等との繋
がりは、自明ではない。
 南北朝時代以降に長谷川党の一部分子が、たとえば
小山義政と奈良県の西大寺との繋がりで、もとの下河辺氏の
館近くに、西暦1368年過ぎに、小山義政から安堵されて
居住させられたとか、戦国時代に、長谷川氏の一部が、
祖先下河辺氏の嫡流の居住地をゆかりの地として、松伏町
下赤岩等移り住むとか、何か無いと、駒数多数系将棋とは、
仮に館があっても自明には繋がらない。
 しかしwebの一部のサイトに、越谷市増林城ノ上につい
て、当然ながら水を含んでいると見られる土で「泥遊びをす
ると、地面から何かが出土するかも。」という、思わせぶり
な記載が、発見される。そこで、2017年1月19日の午
後、小生は現地を尋ね、webに有るような”泥遊び場”が、
ほんとうに存在するような場所なのかどうかを、一応チェッ
クをしに行った。
 結論を言うと、農業用水路が多いものの、遺構と言うには
ほど遠く、すべてコンクリートで整備されており、木質の遺
物が簡単に出そうもないのは言うに及ばず、たとえば瀬戸や
鋳物、焼物類の破片が、地上に散見されるという気配も、特
に感じられなかった。約30分間の捜索で、溝に、巻貝の殻
が一個という結果だった。貝塚が有るかどうかという点でも、
少なすぎる数だった。越谷市増林については、そもそも土壌
がかなり、軟弱な場所である。よってしっかりとした建造物
は、何れの時代に於いても、近代的建造物が立てられるよう
になる前の昔は、無かったのではないかと思えるような所で
あった。このへん昔は、泥濘の中だったのではないだろうか。
せいぜい中世の陣屋とか砦とか、平地によくあった、陣地の
類が、昔有ったかもしれないと、いう様な場所のように思え
た。このような、”平城跡”なら、あるいは、存在しえたの
かもしれない。ただし惣領家の館となると話は別で、長い年
月館として使うとすれば、栃木県小山市の、祇園城や鷲城の
ように、もう少し周囲で、小高い台地のような所を探した方
が、”下河辺本家の館跡”を発見する確率が、上がるのでは
ないだろうかと、直感的に感じられた。何れにしても、この
日は私の、大将棋系出土駒捜索活動の、記念すべき初日と、
位置づけられる日となった事だけは、よって確かではある。
(2017/01/21)

乾党、長谷川党と、摩訶大大将棋(長さん)

 前々回、その前の回で私は、奈良県の豪族、筒井氏
の本拠地や、十市氏の本拠地で、今後中将棋と摩訶大大将棋
の駒が、出土する事が期待されると述べた。
 所で、この2つの南北朝時代から戦国時代にかけての奈良
県豪族の絡んだ戦乱で、私のような、全く別の地方に住む者
にも興味が持てるほど、影響が広域なものの例として、
たとえば、戦国時代天文年間、西暦1532年の、
天文の錯乱の一部「一向一揆の、大和国への侵略」があると
思う。
 著書や情報は多いが、それらを総合すると、この奈良県で
の合戦は次のようにとらえられる、すなわち、

 それまでどちらかといえば、内部で抗争が頻発したものの、
浄土系宗教の特定の一派、浄土真宗を保持するという点では、
教団防衛主義的に動いていた、北陸を中心とする一向一揆が、
教団原理主義軍として、攻めの姿勢に転じ、仏教界における
浄土真宗以外の、他宗派に対する、排撃姿勢を明確にした結
果、それまで他者からの支持という点で、どちらかといえば
同情的で、上昇ムードだった一向一揆が、それ以後「排他主
義者の集まりである」と見なされて、外部からの支持・合流
に、陰りが見え始めるようになる時代の分岐点が、
奈良県における天文年間の土一揆的騒乱、大和国本願寺一揆

であると、私は理解している。
なお奈良県における、一向一揆からの、天文の錯乱時の被害
程度は、webの情報からだけでは、はっきりとはしない。
が、専門書を紐解くと、彼らがターゲットとしていたとされ
る、興福寺本体に対する打撃は、比較的少なかったものの、
その末寺や、関連御坊等が、壊滅的な打撃を受けたとの事の
ようである。なお奈良の春日神社は、一揆から直接の攻撃を
受けた。
 ちなみに1532年当時は戦国時代の最中であり、治安維
持できるような公的勢力が存在しなかった。わずかに地元の、
有力武家である木沢長政が、筒井氏の率いる乾党や、十市氏
の率いる長谷川党を従えて、一向一揆の進撃の防御を、主と
しておこなったとされている。つまり、

乾党や長谷川党は当時、反一向一揆的な勢力だったのである。

よって、これらに所属する豪族は、当然だが、阿弥陀教に
対して、この時点(西暦1532年)で、否定的立場にあっ
たと、推定できる。
 他方、以前のべた摩訶大大将棋に関して、次の特徴が指摘
できると、私は思う。

①玉将の成りが自在王である。ところで、自在王という単語
より、世自在王が連想され、webで検索しても誰でも直ぐ
判ると私は思うが、その程度しか関連単語は無いと、私は認
識する。世自在王は言うまでも無く、仏教では、阿弥陀如来
の先達である。従って、この将棋の玉将は、他の将棋種とは
異なり「やがては世自在王の理想を、継ぐ事になる阿弥陀如
来」と、ほぼ特定されると私は見る。なおこれは将棋である
から、ゲームとしては、一方の阿弥陀如来が、他方の阿弥陀
如来を倒すべく、勝負をするのである。これは、一向一揆
内で行われた、有力寺院間の、主導権を争う騒乱を馬鹿にし
たり、見下して、模して作られたもののように見る。
②なぜか、この将棋では酔象の成りが、同じく宗教的色彩が、
強い単語とは言え、”釈迦”を意味すると見られる、太子に、
なっていない。仏になれるよう、真剣に探求を続けている
修行途中の若い賢人、善財童子と神仏習合で、同一視される
ようになった、若王子を連想させる”王子”になっている。
もともと、釈迦は人の死の悲しみを救う事を目的に、仏教を
開いたのであり、殺戮を連想させる合戦の戦法に熟達する、
戦争ゲームとしての将棋には、似つかわしくないのであるが、
この将棋種では、特にこの点が強調され「阿弥陀如来を頭目
とする戦闘集団に嫌気が差して、釈迦が、摩訶大大将棋だけ
からは、特に手を引いた」ような印象を与えるような、ルー
ルに改ざんされている。なお、水無瀬兼成作の将棋部類抄に
は、摩訶大大将棋の酔象の成りが、王子である点について、
複数個所に記載があり、タイプミスとは、私には考えられな
い。
③仮に後期大将棋が、よりポピュラーなゲームだと見なすと
すれば、提婆、教皇、無明、法性、狛犬、夜叉、羅刹、
金剛、力士、摩カツ、と、一言で言えばそれに、仏教駒を加
えて、作られたと言っても良い将棋が摩訶大大将棋である。
つまり素直に見れば、仏教界の開祖、釈迦の理念からみると、
明らかに「有ってはならない最悪事態」を模したゲームにな
っているようにしか、少なくとも、私には見えないゲームで
ある。
④淮鶏と仙鶴、蝙蝠(または、古時鳥)というように、中国
の故事にちなんだと、明らかに判る駒名の駒を加えている。

上の事柄のうち④については、なおも不明であるが、①~③
については、

この将棋、摩訶大大将棋が西暦1532年の、天文の錯乱の
時代に、仮に存在したとすれば、
乾党や長谷川党の武家が、一向一揆を、”見下すべき卑しい
者共”と認識して、それを鎮圧する行動の、正当性を強く暗
示させるような、対大和国本願寺一揆に対する反撃軍の戦士
としての、精神的支えになりえる内容に、ちょうどうまく
なっている

と、私には言えるかと思う。あるいはより積極的に、

乾党や長谷川党に所属する人間が、摩訶大大将棋の成立に、
何らかの関与を、あるいはこのときしているのかもしれない

とさえ疑われるのである。よって、以上のように未だ漠然と
してはいるが、摩訶大大将棋の解明のために調べる勘所の
キーワードとして、

筒井、十市、乾、長谷川、といった、特定の種族の名前を
挙げる事ができるのではないかと、私は考えているのである。
(2017/01/20)

妙に現代日本将棋連盟風な後鳥羽上皇時代の公家の将棋連盟(長さん)

 WEBにも紹介が有るかもしれないが、「大日本史料」の
1221年宣明暦7月13日の、隠岐に流された後鳥羽上皇
の話として、今小路の御所で組織されていたとされる、公家
の将棋団体の話が載っている。西蓮という後鳥羽上皇の、恐
らく側近と、隠岐に訪ねてきた、当時の「公家の将棋連盟」
に所属するとみられる、清叔という名の出家貴族との、
将棋の棋力を比較する話である。
文面から察するに、西蓮の方が強いらしく、西蓮の桂馬一枚
落としで、清叔は楽に勝てる。西蓮の歩兵一枚落としで初め
て、清叔とは恐らくイーブンなのではないかと、清叔自身が
後鳥羽上皇等に報告したという事である。
 実際には、西蓮は将棋がさほど旨くないと、
後鳥羽上皇側近等には認識されていたが、清叔の棋力は、
その西蓮より、さらに、かなり劣っているように見え、
自己申告よりは、かなり劣っているように見えたと、いう、
話になっている。また清叔によると、京都市内であろうか、
今小路の御所で組織されていた、公家の将棋連盟の中で、
彼は、「私はBクラスの上位程度であるが、着手の調子が良
いときには、Aクラスの末席に行ける程度の強さである。」
と言っているという事である。なお、大切な事は、
この事から今小路の御所で、将棋に関して公家の将棋連盟の
ような団体が、鎌倉時代初期に、後鳥羽上皇に報告している
のであるから、恐らくもともと皇室等の指示で、当時の常識
によると”以前と同様に”、組織されていた事が判る。

以下あくまで私見だが、この仰々しい将棋団体の存在こそが
まさに、日本に大将棋が興った、根本原因だと私は思う。

日本将棋連盟が存在する、21世紀の日本の常識からすると、
この”公家将棋連盟が存在する話”は、ぱっと見では、
有っても、特におかしくない話に聞こえるのかもしれない。
が、当時の将棋が、

日本将棋ではなくて平安小将棋だった

事を、思い出すべきである。「連盟を作って、貴族同士でリー
グ戦等をし、皇族に観覧させていた」としたら、あまりにゲー
ムが幼稚で、不可解な話ではある。皇族の所へ出かけては、
たまに一種の儀式をする、組織員の将棋の力は謎の団体、と
いう事なのであろう。
更に以下も私見だが、この”連盟”で指されていた将棋は、

駒の数36枚の9×9升目制の定説の平安小将棋だと思う。

つまり、以下私見では、この他に8×8とか、列9列段8段
の平安小将棋とか、複数の駒数32~36枚の将棋があった
が、公式な場で、皇族が観覧するため、ゲームの出来よりも、
見てくれの最も良いタイプの、この9×9升目型の平安小将
棋だけが指されていたと私は見るのである。そして、この将
棋にしばしば手詰まりが現れて問題になったため、この記録、
武家政権の時代、西暦1221年時点でなおも、大将棋の研
究が、公家の間だけで細々と、続行されていたので
はないかと言うのが、私の持論だ。

恐らく、この”今小路の御所将棋”が無ければ、大将棋から
中将棋の発展は無く、日本将棋の盤も、今のように、
9×9升目では、無かったかもしれないと私は思う。
よって、この後鳥羽上皇に関する「大日本史料」の、この記
載は、当時の皇室がらみの”公家将棋連盟”の存在を証明し
ているという点で、たいへん重要な記録であるというのが、
私の考えである。

なお、学会で注視されている駒落ちについて、ここでは付け
たし的に述べると、
平安小将棋を指すと、「西蓮の方が清寂より、相当強い」と、
清寂自身が最初から認めていると、私は解釈する。この話の
著者格の鎌倉時代の人間は、平安小将棋では、かなり棋力に
差が出ないと、平手で指してもイーブンだという事を、知ら
ないのだと私は思う。
大概は玉を詰めるのではなくて、裸玉で勝つ、詰め将棋の無
いゲームだからだ。
だから、例えばこのケースは、西蓮が左桂馬を落として指し
て、清寂が勝てないようでは、相当に清寂は西蓮より弱いの
であり、「それなら勝てる」のであるから、初心者とプロの
差は、さすがに無いのであろう。ついで恐らく中央の歩兵を
西蓮が落として、「清寂が西蓮に、勝てることがあるかも」
程度なら、かなり清寂は西蓮より弱い可能性が強いが、手合
わせ程度なできる、という事だと私は、

平安小将棋については、日本将棋とは全く違いイメージする。

平安小将棋は棋力が相対的に弱くても、たまたま形良く進む
と、上手が下手を負かすことが難しい、もともとの両者の棋
力の差に対して鈍重な、ゲームと認識する。この点からみて
も、よって平安小将棋は、日本将棋より、かなり劣るゲーム
と、私は見るのである。
 つまり清寂は最初からまじめに、普段平安小将棋を”連盟
内”で指している”実話話”をしているのに、鎌倉時代の著
者が誤解して、駒落としの用語も、意味さえ実は正確に知ら
ずに、彼をけなして書いているように、私には見えるのであ
る。よってこの文面からは、

これを書いた鎌倉時代前期の著者さんよ。
あなたの時代の将棋を、もっとまじめに勉強しなさい。

としか私には、正直読み取れないと言う訳である。
(2017/01/17)

天神(天満宮)と大将棋系ゲーム(長さん)

 前々回、長谷川という一族と、中将棋・摩訶大大将棋等の
駒数多数将棋類とは、相関性があり、従って静岡県焼津市、
栃木県小山市、奈良県田原本町が、大将棋や中将棋の駒を、
発掘する際の、狙い目であるとの旨を述べた。
 ところで、こうした大将棋系ゲームと関連しそうな、”発
掘の勘所”となりうる別のキーワードとして、曼殊院が別当
を務めた、「天神」または「天満宮」があると、私は予想す
る。なお、天満宮の苗字は、菅原道真の”菅原”であるから、
長谷川とも藤原秀郷の藤原とも、一応別ではある。
 前に述べたが、水無瀬兼成が将棋部類抄を作成した元文献
の”将棋種々の図”は曼殊院所蔵の古文書文献であり、
曼殊院は北野天満宮を、別当として従えていたので、天神や
天満宮とは関連している。また、栃木県小山市の、裏一文字
金角行駒を出土させた地点は、小山市の廃寺青蓮寺の敷地で
あり、青蓮寺は、小山市天神町と小山市神鳥谷の境に有って、
天神町の天神または天満宮を、江戸時代までは、別当として
従えており、こちらでも駒数多数将棋駒と天満宮とは、線で
つなぐ事ができる。
 実は今の所、少なくとも私に指摘できるのは、以上の2例
だけなのであるが、

このキーワードは関連する理由が、いかにも見え見えなので、
当然”狙い目”に入れるべき項目・要素

だと、私は思っている。
理由は、駒数多数将棋は日本将棋よりも、ゲームを覚えるの
に、ルールが多く頭を使い、頭の血の巡りを良くし、洞察力
を強めて、それをする者が、学問を発展させる力が増すと
思われていた事が、藤原定家の日記「ボケて、『大将棋が指
せなくなってしまったのでは、死んだのと同じ』と嘆いてい
る友人貴族の話」からも示唆されるように、自明だからだ。
 そもそも、藤原頼長が大将棋を指したのも、宋の交易船の
船主から、”頭が幼稚だが成金で羽振りの良い藤原長者”の
イメージで見られないようにするために、駒数32枚8×8
升目制原始平安小将棋を止めて、二中歴大将棋へ移行したと
いう、経緯だったのかもしれないとは、前に私も指摘した。
更に、前回のべたように将棋馬写という文献が、発掘される
事からも象徴されるように、習字の題材になるほど、いろい
ろな字の書き方を覚えられるという特長が、駒数多数系将棋
に顕著に有っても、日本将棋には、より少ないと見られる事
もある。
 特に未だ、持ち駒ルールが発達しなかった鎌倉時代中期頃
には、ゲームとしての深さが、平安小将棋に比べて、駒数多
数系の駒数概ね104枚、13×13升目制程度の、
普通唱導集大将棋の方が勝っていたため、平安小将棋に比べ
ると、普通唱導集大将棋の方が、学習者を賢くするゲームに、
識者には特に写ったに違いない。むろん、小将棋に持ち駒
ルールが発明されると、それまでの平安小将棋に無い、
チェスやシャンチーのような奥深さが、小将棋にも付与され、
小将棋は”低レベルなママゴトのイメージ”が、完全に払拭
されたのであるが。
 それでもなお、中将棋の駒が、若者の習字の学習の題材と
なるなど、理数系科目の力は付かなくても、国語の力は付く、
つまり覚えられる字数が多いという点で、

学問の神様、菅原道真の天神または天満宮と、駒数多数系将
棋は、関連付けられ続ける力を、鎌倉時代末期以降も持続さ
せ続けていたと私は見る。

従って、遺跡のある場所で、こうした特殊な種類の将棋駒の
発掘を狙うのにも、ひょっとすると、近くに”学問の神様、
菅原道真を祭る”「天満宮が有る」とか、天満宮とか学問の
神様と発掘場所の豪族との間に、何か繋がりがあるかどうか
という事を、チェック項目・狙い目の一つにした方が、一応
良いと私は考える。
 こうした観点からたとえば、奈良県の諸豪族の館跡の例を
チェックすると、

十市氏の長谷川党の居住地、法貴寺は、よく知られているよ
うに、池神社と略称される天満宮を従えているため有力だし、
筒井氏は家紋が梅鉢で、神官の出の家と推定される天満宮紋
類似なため、この豪族の居城地も、駒数多数将棋出土駒の
発掘にとっては狙い目だと私は思う。

 何れにしても、日本全国に広がるが、どちらかといえば
天満宮は、関西がやや多い傾向ため、駒数多数系将棋は、
現在の中将棋の分布同様、関西が、特に狙い目なのではない
かとの、アタリは当然付く事だろう。(2017/01/18)

「将棋馬写」の意味するところ(長さん)

最近、曼殊院で発掘された、将棋関係の資料として「将棋馬写」と
いう表題の、主として中将棋駒の、誰かは良くわからない書道家に
よる、筆者冊子がある。
 中将棋の駒の書体に興味ある方にとっては、たぶん極めて興味深
いものであり、私などは、駒の種類によっては、始めてみるような
書体もある。ただし、曼殊院の将棋史料としては、このブログでも
たびたび名前の出た、水無瀬兼成の将棋部類抄の元史料、「将棋種
々の図」が著名であり、「新史料の発見」の報から、それに匹敵す
る、将棋史上の史料の発表かと、イメージすると、一けん”肩すか
し風”である。ただし、既に既知の事ではあるが。
 銀、桂馬、香車、歩兵の裏金の書写の記載から、明らかに日本
将棋が成立した時期のものと判り、更に「歩兵の裏金であるべき、
くずし金」が「と金」で無い事から、中将棋が主流であった頃の
手本に基づくものである事が、良くわかる。歩兵のくずし金から
見て、

水無瀬兼成の将棋部類抄と、作成年代自体は、明らかにそうは、
離れていない。結構そこそこ、古い書である。安土桃山時代末期か、
江戸時代初期の手本を使って書かれた冊子と見られる

と判る。
従って熟考すると、この書写は、次の事を示していると思われる。

 中将棋が主流だった時代には、中将棋の駒種以外は、手本にする
ほどには、少なくともたくさんは、現物が存在しなかった。よって、
「将棋種々の図」には、他に、その内容の正当性を補強するような、
類似史料が、安土桃山時点で見ると、余り期待できないと考えてよ
い。書家は、将棋の駒の字で書道の練習するのに、安土桃山時代の
時点では、日本将棋と中将棋の駒の記録だけに、頼るしか、もはや
無くなっていたとみられる事は、明らかである。

逆に言えば、「『将棋馬写』に記載が無いのだから、『水無瀬兼成
の将棋部類抄』に、信憑性はさほど無い」と、ひょっとすると我々
は価値判断認識を、この2つの曼殊院文書に関して、逆転させて
考える方が、正しいという可能性も、まだ完全否定すべきない、
黎明期の段階なのかもしれない。へたをすると”将棋種々の図”か
ら我々が過去得た、”夢のような虚構”を、”将棋馬写”が、現実
の厳しい世界へ、引き戻してくれたという可能性も、今の所まだ、
完全否定とまでは、とても出来ないと言う事である。(2017/01/17)

栃木県小山市出土駒と静岡県焼津市小川町出土駒(長さん)

 前回、栃木県小山市神鳥谷曲輪出土駒は、小山市の青蓮
寺という寺の名が、奈良県宇陀市の青蓮寺を連想させるた
め、奈良県ゆかりの関係者が作成したものであり、よって、
奈良県の南北朝時代よりの、四豪族の住居の遺跡跡の何れ
かから、将棋駒等の遺物が、将来出土するかもしれないと
の趣旨を述べた。
 さて栃木県小山市に平安時代末期より戦国時代まで居た
豪族、小山氏と関連する種族で、かつ奈良県ともつながり
そうな一族として、奈良県の十市氏が名乗った武装集団名、
長谷川党と字が全く同じ、長谷川氏が挙げられる。
 なお、長谷川氏は小山氏と同じく藤原秀郷の子孫を名乗
り、小山氏の祖の、小山政光の弟の一人、下河辺行義の次
男下河辺政義の、更に息子の小川政平の子孫の分家。つま
り小山氏・小川氏の子孫の長谷川政宣なる人物が、”故あ
って”大和国長谷川(大和川)に住んだため、長谷川氏を
名乗ったとWEBにある。なお長谷川政宣の系統は、時代
が下ると、後述するように静岡県焼津市の小川(こがわ)
に移り、戦国時代には、静岡県焼津市の小川城の城主、
小川法永長者となったと、同じくWEBにもある。
 また長谷川氏は、南北朝時代には益戸の一族と称してい
たが、一族で茨城県石岡市の権現山に居城しており、南朝
方に所属していたため、北朝方の武将高師冬に成敗されて、
その一部が結局、南北朝期の恐らく小山では小山氏政の時
代に、栃木県小山市に逃げ込んだとも言われている。
 以下、単なる憶測だが、茨城県石岡市、奈良県田原本町、
栃木県小山市間を、北朝の追撃を逃れるために、出家を装
う等して点々とする間に、益戸から長谷川へ苗字を変えた
のが、弓削道教開祖の、栃木県小山市の持宝寺の廃末寺、
小山市の青蓮寺の、江戸時代の住職の先祖の素性なのだと
すれば、この不思議な名前、”いにしえ尼寺の、妙に奈良
県風の、小山市の青蓮寺、室町時代初期誕生の謎”は、
だいたい解けるのではないかと、私は考えている。

 つまり、小山市の青蓮寺の住職等の先祖は、長谷川政宣
である、という事である。

 ところで、小山市で将棋駒が出土し、それが長谷川氏絡
みならば、奈良県のたとえば田原本町、法貴寺地区、長谷
川党の旧本拠地と聞く地点の発掘でも、駒数多数将棋駒の
出土が期待できるという、別の根拠としては、

静岡県焼津市小川町(こがわまち)
の小川城跡遺跡から、1970~1974年の時点で既に、
駒数多数将棋の一種、中将棋の駒2枚等が出土している事
を、挙げる事ができると思う。

この駒は一般に焼津駒といわれ、小川城の城主は、冒頭で
述べた事情で奈良居住の長谷川政宣の子孫であり、テレビ
の時代劇の、鬼平犯科帳で知られる、長谷川平蔵(長谷川
宣以)の先祖の、長谷川元長(?)とされている。
ちなみにここで出土した”中将棋の駒”とは、具体的には、

成りが飛鷲の龍王と、成りが飛鹿の盲虎

の以上2枚である。
つまり、奈良県の中世豪族の館のゴミ捨て場となった井戸
跡で、駒数多数将棋の出土駒が将来、発掘されるかもしれ
ないと、期待できるというのは、小山市神鳥谷曲輪の
西暦2007年の、裏一文字金角行駒の出土が根拠とも
言えるし、1970年代の静岡県焼津市小川の裏飛鷲龍王
駒や、裏飛鹿盲虎駒が根拠だとも言えるというわけである。
ただ、ひょっとすると奈良県の豪族の館跡のゴミ捨て場で
将来出土する駒は、小山市の出土駒の場合とは違って、
”南北朝時代風の摩訶大大将棋の駒”だけでは、あるいは、
無いのかもしれない。
 ひょっとすると焼津駒と同様に、室町時代後期から戦国
時代頃の中将棋の駒とともに、摩訶大大将棋の駒を思わせ
る遺物も併せて出土して、「摩訶大大将棋が、中将棋が盛
んに指された時代のもの」と判り、いっきに摩訶大大将棋
の素性の謎が、解けてしまうというような、想定外の、
画期的な出来事も、あるいは起こりえるのではないかと、
私は期待する。よって、従来より盛んな奈良県の発掘研究
が更に進んで、遊戯史研究も大いに進展する事を、私はせ
つに望む者である。(2017/01/16)

奈良県県内、将棋駒出土の候補地(長さん)

前回、奈良県県内には依然、少なくとも中世の将棋駒の遺
物が眠っているとみられ、中世の武装集団の館跡の、ゴミ
捨て場井戸跡等が、候補として、有力ではないかと述べた。
奈良県は鎌倉時代・室町時代共に、武家幕府の勢力が及ば
ず、守護が置かれずに、興福寺の支配下に有ったというの
で有名である。興福寺は、松本清張・樋口清之氏の著書、
「奈良の旅」光文社文庫(1984年版)の44~52
ページ付近によると、奈良県の政治の中心であったばかり
でなく、文化の中心でもあり、イメージとしては百貨店
を経営しているような寺だったという。百貨店には、中世
鎌倉時代以降になると、武家の嗜みとして、武具のほかに、
将棋の道具も取り扱うようになり、よって、興福寺の廃棄
物置き場からは、将棋駒が出土するという経緯のようであ
る。従って、売り場の興福寺で、まだ未発掘の、より新し
い、鎌倉時代作の将棋の遺物が、新たに発掘される事も
期待できるが、「それを買った客」が、その将棋の駒を
使った後、自分の屋敷近くに廃棄した駒が出土する事も、
同様に期待して良いのではないかと、私には思われる。
さて、奈良県には古来から、大和四家と言われる

①大和郡山市付近の筒井氏
②高市郡付近の大和越智氏
③田原本町付近の十市氏
④北葛城郡付近の箸尾氏

等の、有力な武家が居たらしい。鎌倉時代には、興福寺の
僧兵の一部であり、ほとんど、どの家も目立たなかったよ
うだ。彼らが注目され出したのは、現地が戦乱に巻き込ま
れた、南北朝時代かららしい。
なお、彼らの宗家が中心になり、奈良県では、それぞれの
武装勢力の集合体、”党”が結成され、

①筒井氏を盟主とする集団を乾(戌亥)党、
②大和越智氏を盟主とする集団を散在党、
③十市氏を盟主とする集団を長谷川党、
④箸尾氏を盟主とする集団を中川党、

と言ったそうである。
これらの党は、宗家の城を中心に武士の溜まり場を形成し
ていたようだから、栃木県小山市の神鳥谷曲輪遺跡の例の
ように、宗家の居城の中心点から概ね、1km前後以内の、
古井戸の跡とか、隣接した関連寺・神社の遺構・ゴミ捨て
場・廃井戸等に関して、上の①から④の何れかに該当する
奈良県内の地点の館城の周辺では、あるいは今後、将棋駒
等が出土する可能性が、充分に期待できると私は思う。
興福寺周辺から、現状の11世紀の駒より、やや新しい、
駒数多数系将棋の盤・駒の遺物が出るとか、上記の豪族の
館跡の、古井戸跡から、同様に駒数多数将棋の盤・駒が、
栃木県小山市のケースに似たパターンで出るとかが、実際
に起こり、知りうる情報が少ないために、解明に困難を
きたしている大将棋の謎の解明も、今後、より進むよう、
私は心より期待したいと思う。(2017/01/15)

将棋の駒の今後の出土の期待度(長さん)

 webの情報を読み、日本全国レベルでマクロ的に思考
してみると、

現在の所、埋蔵されている将棋駒は、部分的にしか、発掘
されていない状況ではないかと

私は予想する。もともと将棋駒遺物は、発掘考古学者が持
つイメージでは、通常木簡の類とされ、
”木簡類は西暦1000年以前の遺跡から、多く出る物”
と私に言わせると、見当違いの”アタリ”が付けられてい
るのが、災いしているように見えるからである。
他方、遊戯史の現在の主流の考えによれば、

将棋ゲームの日本での発生は、西暦1000年前後である。

従って、
彼らの主として木簡を探している遺跡からは、将棋駒が、
比較的、稀にしか出ない条件のはずである。
私も、木簡研究のwebサイトを見て始めて知ったのだが、
どうやら興福寺第1期出土駒を発掘した等の発掘担当考古
学者は、私などとは大きく違い、興福寺遺跡からの将棋駒
を、

西暦1058年記銘の、その界隈の遺物としては、かなり
新しい出土物品である

とイメージしているらしい。
私などが「日本将棋ゲーム発生よりほどなくしての、とて
も古い物品が出土した」と思っているのとは、正反対の、
大成果に対する御謙遜である。
 つまり、奈良県庁の西と東の井戸跡は、奈良の都を発掘
研究している、奈良の考古学研究者にとっては、平城京付
近等から大量に出土した木製品に比べれば、比較的新しい
時代の遺跡の発掘研究と、どうやら写るらしい。彼らとし
ては、奈良県でも、近鉄奈良駅から、相当に離れた県の外
れのほうの、中世になってから地方武士団等が、寝泊りし
ていた館跡等で、木製品遺物を探す研究を、「木簡は古代
の遺品」の常識から、今の所残念ながら、余りしていない
ように私には見える。
以上の経緯から、少なくとも木製品遺物研究の進んだ奈良
県には、西暦1000年以降の遺物の出土に期待している
我々から見ると、未調査のゴミ捨て場の井戸跡が、まだ多
数残っているのではないかと、私などは期待する。つまり、
奈良県と言えば奈良時代だが、今後の遺跡の発掘の成果に
ついては、余り時代を決め付けないほうが良さようだ。
 たとえば神奈川県鎌倉市といえば、鎌倉時代だが、市内
の学校の建築現場から、律令時代の鎌倉郡衙の木簡が、
あるとき見つかって、たいへんな話題になった事が、ここ
の論とは逆パターンだが、あるようだ。

ただし、時代が下るほど、遺跡は現在の市街地と、重複し
やすく、その分出土の条件が悪くなる。

そのため、たとえば大型小売業者の店舗の建設のために、
奈良県では木簡の遺跡が、後日破壊されてしまったという
事があるように、市街地の真下なため、中世の将棋の駒の
遺物の発掘は、事実上不可能になる確率が、古代の木簡遺
跡よりも、更に高くなってしまうのかもしれない。
京都の遺跡からの、中世の遺物の発掘が停滞しているのも、
平安京でも東の方は、現在の市街地と重なっているから
かもしれない。たとえば一例を挙げれば、
 下野宇都宮氏の南北朝時代の、扶持衆の居住地としても
使われたのかもしれない、京都下屋敷が、四条烏丸大丸の
所に、仮に有ったとすれば、その地中に、
「宇都宮貞泰、宇都宮義綱、小山よし姫、宇都宮元綱が使
った摩訶大大将棋の駒が万が一眠っている」としても、
今後の発見は、奈良市の長屋王邸木簡多出土の遺跡同様の
経緯で、難しいのかもしれないと危惧はされる。
何れにしても中世の豪族の頭数は元々多いから、将棋ゲー
ム程度の遺物を捨てた井戸跡が、現在までに、わが国では、
すべて調べつくされているとは、とても思えないように、
私には思われる。(2017/01/14)

江戸宝暦期の七国象棋の「名手」戸田おくらの日本将棋の棋力(長さん)

前々回のこのブログの書き込みで、日本の女流将棋棋士として、
戸田おくらの名を挙げ、”女性で将棋の強い指し手”と紹介し
た。戸田内蔵助という、江戸城の書院番の妹との事である。前
回、将軍徳川家治の時代に、宇都宮藩の藩主が、戸田氏になっ
ていた事を述べたが、残念ながら、書院番戸田内蔵助や戸田お
くらと、下野宇都宮藩・藩主の戸田忠寛が関連するかどうか、
私は知らない。苗字が同じであるから同族と、徳川家治や老中
の田沼意次等、一般的に江戸時代の識者からは見られたことが、
当然有ったのかもしれない。ちなみに実はこの方の場合、
「日本将棋が強かった」との記録が、残っている訳ではない。

七国象棋を江戸城にて、巧みに指したので、注目された方

である。なお、七国象棋は、もともと朝鮮半島の江戸時代の王
朝内で指された象棋で、日本では江戸時代でも宝暦期頃、当時
の徳川宗家の将軍、第十代徳川家治が、朝鮮王朝から送られた、
確か、かなり道具自体の大きさの大きい、囲碁状の盤に、専用
の計8色の華やかな駒を置いて、江戸城内でその時代だけ、
恐らくパフォーマンス的に指した、一時的に流行ったゲームの
事である。ルールは、日本将棋とは全く違いチャンギの類でも
あるようだし、そもそも2人で指すゲームですらなく、

七国象棋は7人で指すという大きな特徴がある。

ゲームの大枠としての作りは、日本将棋と同様、将棋やシャン
チーや、チェスの類となので、戸田おくらが日本将棋を指せた
事は、ほぼ確かだと私は思う。が、有力棋士である事でも有名
だった、将軍徳川家治に対抗しうる、日本将棋に関する強力な
棋力の持ち主だったという記録は、特に残ってはいない。以下
私見だが、戸田おくらの場合、

最初は日本将棋も強かったとしても、七国象棋を指しすぎて、
こればかり、するようになったとしたら、彼女の
日本将棋の棋力がだんだん、落ちてきた事だけは、たぶん確か

だと、私は推定する。
七国象棋の”玉駒”が、邪魔固定駒で天元の位置に置く周国の
”王”一枚を除いて、奔王(チェスの女王)動きの駒だから
である。ルール上では、この将棋の場合”王”を取っても、日
本将棋のように勝ちではあるが、事実上、"玉詰み型で勝つ”
ゲームでは、ないと私は思っている。”他国から駒をなるべく
多く取る事によって、勝ちを目指す”のが、基本のゲームなの
ではないだろうか。

つまり、このゲームに強くなるのを目指して、詰七国象棋を
解く練習を、戸田おくらがしたかどうかは、大いに謎だと思う。

詰み将棋を解く練習をするというのが、一般にはシャンチー・
チェス・将棋型ゲームに強くなる基本であろうから、駒を取る
のが旨くなるゲームばかり指すと、ゲームの感覚がかなり変わ
り、日本将棋型のゲームは、七国象棋に、のめり込めばのめり
込むほど、弱くなっていった疑いが、強いのではないかと、私
は思う。
 また、この将棋の最大の特徴である、2人を超える7人制で
あるという事も、日本将棋とは全く別の、指し方感覚を生み出
すはずだと、私は思う。つまり、2人制のチェス・将棋ゲーム
と違い、3人制以上では、自駒の残の絶対量が大切になる。
仮に、七国象棋が持ち駒ルールなら、相手の一人に勝った時点
で、たとえば玉を早く詰めている事以上に、持ち駒がたくさん
出来て、次に第3国に立ち向かう余力が、充分に有る事の方が、
大切になる。だから、2人制チェス将棋型ゲームと、3人制以
上のチェス将棋型ゲームとでは、以上の点で頭をすっかり、切
り替えないと”巧み”とは、人から評されないと思う。

更には、七国象棋の場合、日本将棋と異なり、実際には持ち駒
ルールの有る将棋ではなくて、取り捨てルールのゲームである。

そのため、将棋と違い、そもそも

特定の相手と、初期の局面で、戦闘状態になる事自体が不利

という、日本将棋とは全く違う様子になる。日本将棋の
局面評価値は、2者間の相対値であるが、七国象棋では、
特定の戦闘中の相手に対する優位性の局面評価の相対数値が
たとえ変動していたとして、自分の方が優勢であったとしても、
互いに消耗している訳だから、自分が当面の相手よりもたとえ、
評価値が高かったケースであっても、漁夫の利を狙って、
最初からは積極的に争いに参加しない、第3国を持つ棋士の
評価値よりは、消耗している分、必らず低いのである。

つまり、3人以上で争いかつ、ルールが取り捨てだから、最初
から積極的に競り合いに応じる戦術は、不利

なのだ。
このゲームでは従って、”攻め合い”には積極的に参加しない
ようにするため、通常の日本将棋のようには、玉を詰む能力
は、ほぼ発揮されず、自分の駒同士には紐をつけて、只取りに
ならないようにし、他国の中に、たまたま浮き駒になる駒が発
生するのを、我慢強く待って、その駒を”只で”取りに行くと
いう事を繰り返し、とにかく、自分の取得駒数を、増やすよう
な指し方をするというのが、戸田おくら七国象棋名人の、差し
回しだったのではないかと、私には想像されるのである。
なお、私にはこの将棋の”騎”駒のルールが、文献を読んでも
正確には判らない。だが、仮に「八方桂馬、チャンギの相、そ
れに4-3の位置へ行くの動きを兼ねる。ただし隣接前後左右
升目が塞がれている場合は、シャンチーの馬ように、動きが封
じられる」だとすれば、初期配列の関係で、
最初から右辺最下段の”剣”駒が楚国の”弩”で当たっていて、
かつ、浮き駒になっているので、中国古代の春秋戦国列国の
逸話とは異なり、秦国を持つのは、実はこのゲームでは、最初
から、不利かもしれないと私は思う。
以上のように、女流棋士戸田おくらが、江戸徳川幕府関連の記
録に残ったのは、日本将棋が強かったかどうかは謎であっても、
チェス・将棋・シャンチー型のゲームが一般的に好きであり、
シャンチーかチャンギがある程度指せ、また、特殊なゲームを、
あえて指す面倒さを厭わずに、将軍の意向として、快く引き受
け、恐らく取り捨て型で、玉の詰み難い、日本の特に古い時代
の将棋も、有る程度、練習した事のある、というような、特殊
な棋士経歴の持ち主だったからではないかと思う。
 そもそも、日本将棋とは全く別の種類の駒名が出てくるゲー
ムを、敢えて指すという事からは、戸田おくらが、大将棋や中
将棋も、ある程度、指したのではないかと推定されるだけでな
く、”裸玉も勝ちである”という、二中歴小将棋と七国象棋の
指し方コツ、つまり相手駒を、駒得になる場合だけひたすら取
るという共通性から特に、

彼女が、しばしば日本将棋の道具を転用して、平安小将棋を、
少なくとも道楽レベルでは、良く指していた

というのは、ほぼ間違いが無いような気がする。今でこそ、
日本将棋の盤駒は、それで将棋は日本将棋しかしないが、
今よりは持ち駒ルールの開始に、時代的には近かった、江戸時
代には、”女・子供がする遊びで、平安将棋を指す”という事
は、まだかなり残っていたのではないかと、私には推定される。
(2017/01/13)

宇都宮グランドホテル従業員の超能力(長さん)

 だいぶん前からであるが、毎年春頃、日本将棋連盟の役付きの棋
士が中心に参加して、「とちぎ将棋まつり」というイベントが、
栃木県宇都宮市で開催されている。実は知る人ぞ知るで、このイベ
ントには、ある不思議な話が伝わっている。
 このイベントが毎年問題なく行われるのは、言うまでも無く、
主催者の運営が、きちんとしているからである。しかしそれに加え
て、故米長邦雄永世棋聖が、自発的にこのイベントに肩入れしてい
たのが、持続力の一つになっているのを、故米長棋聖のブログを読
んでいた者は、皆知っている。栃木グランドホテルという、この
イベントの会場と、故米長永世棋聖との間には、ある因縁があるの
である。
 それは、米長棋聖が名人戦で中原誠永世名人と対局して、1期だ
けだったが名人位をもぎ取った、7番勝負の第1局が、この会場で
行われ、そのとき中原永世に故米長永世棋聖が勝ったのだが、その
際、世話をした宇都宮グランドホテルの従業員の対応に、不思議な
超能力が感じられたと、故米長棋聖が、自身のブログで語っている
のである。宇都宮グランドホテルの従業員が、まるでその7番勝負
の行方を、予め知っているかのように、対局が行われる前から、

中原当時名人を挑戦者扱い、米長棋聖を名人扱いしたと言うのだ。

つまり、宇都宮で「とちぎ将棋まつり」をするようになってから、
各棋士は連盟の指示で、開催会場に派遣され、故米長邦雄永世棋聖
も、基本的にはそうしていたのだが、以上のような因縁に、当
然の事ながら気をよくして、飛び入りでも一人でやってきて、たと
えば加藤一二三九段と、特別対局を喜んで引き受けては、帰りは自
分のマネージャーも伴わずに、すたすた駐車場に、一人で引き揚げ
る姿を、当時私も目にしたものだった。当時日本将棋連盟は、米長
永世棋聖が会長だったので、他の有力棋士も指示とはいえ、知らず
に煽られるように、この地方巡業に参加する姿が目に付いた。そし
て、最近も継続は力で、このイベントが続いているようなのである。
むろん、将棋連盟が宇都宮市に年に一回だけだが来るのは、興行収
入になるのもあるが、将棋の指導・啓蒙の意味も有する。その原動
力は、個人的な米長永世棋聖の感じる、市民に対する印象の良さも
あるが、
恐らく宇都宮地元の人間と思われる、宇都宮グランドホテルの従業
員の性格上の、”日常生活における、並外れて優れた形勢判断能力”
に対し、将棋のプロも、

「仮に将棋を指させたとしたときの、宇都宮市住人の、スジの良さ
そうさ」を感じ、積極的に彼らに将棋を、啓蒙する気になっている、

という気持ちが、以前から、出来ているのではないかと私は思う。
ちなみに、宇都宮グランドホテルは、そのホームページによると、
近世は宇都宮藩の藩邸があった所のようで、藩主の戸田氏が、住ん
でいた、霊験のある場所との事である。
恐らく、以上の不可解な因縁話が広まり、そして大切な事は、話の
意味が正確に伝われば、逆にここで第1局に負けた、中原永世名人
さえも、たのまれ、彼の体調が許せば将来、ひょっとすると、この
イベントに、ひょっこり参加してくださる、気になるかもしれない
と、私は期待する。
 以上の話は、現時点では、故米長永世棋聖のブログ閉鎖から、
そうは経ってはい無いので、プロの棋士の間等では、たぶん常識な
のだろう。が10年先、20年先に、はたして残るかどうか判らな
い話なので、私のブログでも、一応趣旨を取りあげてみた。

 宇都宮にお住まいの方には、ひょっとすると、武家が台頭した
平安時代の最末期頃から、対立勢力同士の競り合い結果の勝ち負け
を、不思議なほど正しく予言する能力の強い方が、多く住んで、
居られるに違いない

と、私は”とちぎ将棋まつり”が開かれると聞くたびに、故米長邦
雄永世棋聖の、この不思議な体験と、栃木県小山市のホームページ
にだけ、限定的に頻繁に見かける、源平合戦に関する吾妻鏡、
「下野宇都宮家が出自の寒河尼、源頼朝との隅田宿での再開話」
との関連性を、いつも考えさせられる。当時関東は、
平家配下の佐竹隆義、木曽義仲の盟友の志田義広、そして源頼朝の
3勢力の鼎立状態といわれる。が、”寒川尼が、息子の結城朝光を
連れて、下野小山一族が頼朝方に付く確約を、じかにしに行っ”た
時点、つまり西暦1180年宣明歴10月時点で、その中で最も
威勢が良かった武力集団は、鎌倉幕府軍ではなくて、その時点で、
未だ負け知らずの木曽義仲軍だったように、私には思えるのである。
よって私などなら、WEBの情報を読んで判断する限り、誘われれ
ば、ふらふらと木曽義仲方に付いたに違いない。
 従って宇都宮出の寒河尼の”予知能力”も、宇都宮近隣の住民と
見られる宇都宮グランドホテルの従業員と同じ位、驚くべきものだっ
たと、私には思える。(2017/01/12)