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江戸宝暦期の七国象棋の「名手」戸田おくらの日本将棋の棋力(長さん)

前々回のこのブログの書き込みで、日本の女流将棋棋士として、
戸田おくらの名を挙げ、”女性で将棋の強い指し手”と紹介し
た。戸田内蔵助という、江戸城の書院番の妹との事である。前
回、将軍徳川家治の時代に、宇都宮藩の藩主が、戸田氏になっ
ていた事を述べたが、残念ながら、書院番戸田内蔵助や戸田お
くらと、下野宇都宮藩・藩主の戸田忠寛が関連するかどうか、
私は知らない。苗字が同じであるから同族と、徳川家治や老中
の田沼意次等、一般的に江戸時代の識者からは見られたことが、
当然有ったのかもしれない。ちなみに実はこの方の場合、
「日本将棋が強かった」との記録が、残っている訳ではない。

七国象棋を江戸城にて、巧みに指したので、注目された方

である。なお、七国象棋は、もともと朝鮮半島の江戸時代の王
朝内で指された象棋で、日本では江戸時代でも宝暦期頃、当時
の徳川宗家の将軍、第十代徳川家治が、朝鮮王朝から送られた、
確か、かなり道具自体の大きさの大きい、囲碁状の盤に、専用
の計8色の華やかな駒を置いて、江戸城内でその時代だけ、
恐らくパフォーマンス的に指した、一時的に流行ったゲームの
事である。ルールは、日本将棋とは全く違いチャンギの類でも
あるようだし、そもそも2人で指すゲームですらなく、

七国象棋は7人で指すという大きな特徴がある。

ゲームの大枠としての作りは、日本将棋と同様、将棋やシャン
チーや、チェスの類となので、戸田おくらが日本将棋を指せた
事は、ほぼ確かだと私は思う。が、有力棋士である事でも有名
だった、将軍徳川家治に対抗しうる、日本将棋に関する強力な
棋力の持ち主だったという記録は、特に残ってはいない。以下
私見だが、戸田おくらの場合、

最初は日本将棋も強かったとしても、七国象棋を指しすぎて、
こればかり、するようになったとしたら、彼女の
日本将棋の棋力がだんだん、落ちてきた事だけは、たぶん確か

だと、私は推定する。
七国象棋の”玉駒”が、邪魔固定駒で天元の位置に置く周国の
”王”一枚を除いて、奔王(チェスの女王)動きの駒だから
である。ルール上では、この将棋の場合”王”を取っても、日
本将棋のように勝ちではあるが、事実上、"玉詰み型で勝つ”
ゲームでは、ないと私は思っている。”他国から駒をなるべく
多く取る事によって、勝ちを目指す”のが、基本のゲームなの
ではないだろうか。

つまり、このゲームに強くなるのを目指して、詰七国象棋を
解く練習を、戸田おくらがしたかどうかは、大いに謎だと思う。

詰み将棋を解く練習をするというのが、一般にはシャンチー・
チェス・将棋型ゲームに強くなる基本であろうから、駒を取る
のが旨くなるゲームばかり指すと、ゲームの感覚がかなり変わ
り、日本将棋型のゲームは、七国象棋に、のめり込めばのめり
込むほど、弱くなっていった疑いが、強いのではないかと、私
は思う。
 また、この将棋の最大の特徴である、2人を超える7人制で
あるという事も、日本将棋とは全く別の、指し方感覚を生み出
すはずだと、私は思う。つまり、2人制のチェス・将棋ゲーム
と違い、3人制以上では、自駒の残の絶対量が大切になる。
仮に、七国象棋が持ち駒ルールなら、相手の一人に勝った時点
で、たとえば玉を早く詰めている事以上に、持ち駒がたくさん
出来て、次に第3国に立ち向かう余力が、充分に有る事の方が、
大切になる。だから、2人制チェス将棋型ゲームと、3人制以
上のチェス将棋型ゲームとでは、以上の点で頭をすっかり、切
り替えないと”巧み”とは、人から評されないと思う。

更には、七国象棋の場合、日本将棋と異なり、実際には持ち駒
ルールの有る将棋ではなくて、取り捨てルールのゲームである。

そのため、将棋と違い、そもそも

特定の相手と、初期の局面で、戦闘状態になる事自体が不利

という、日本将棋とは全く違う様子になる。日本将棋の
局面評価値は、2者間の相対値であるが、七国象棋では、
特定の戦闘中の相手に対する優位性の局面評価の相対数値が
たとえ変動していたとして、自分の方が優勢であったとしても、
互いに消耗している訳だから、自分が当面の相手よりもたとえ、
評価値が高かったケースであっても、漁夫の利を狙って、
最初からは積極的に争いに参加しない、第3国を持つ棋士の
評価値よりは、消耗している分、必らず低いのである。

つまり、3人以上で争いかつ、ルールが取り捨てだから、最初
から積極的に競り合いに応じる戦術は、不利

なのだ。
このゲームでは従って、”攻め合い”には積極的に参加しない
ようにするため、通常の日本将棋のようには、玉を詰む能力
は、ほぼ発揮されず、自分の駒同士には紐をつけて、只取りに
ならないようにし、他国の中に、たまたま浮き駒になる駒が発
生するのを、我慢強く待って、その駒を”只で”取りに行くと
いう事を繰り返し、とにかく、自分の取得駒数を、増やすよう
な指し方をするというのが、戸田おくら七国象棋名人の、差し
回しだったのではないかと、私には想像されるのである。
なお、私にはこの将棋の”騎”駒のルールが、文献を読んでも
正確には判らない。だが、仮に「八方桂馬、チャンギの相、そ
れに4-3の位置へ行くの動きを兼ねる。ただし隣接前後左右
升目が塞がれている場合は、シャンチーの馬ように、動きが封
じられる」だとすれば、初期配列の関係で、
最初から右辺最下段の”剣”駒が楚国の”弩”で当たっていて、
かつ、浮き駒になっているので、中国古代の春秋戦国列国の
逸話とは異なり、秦国を持つのは、実はこのゲームでは、最初
から、不利かもしれないと私は思う。
以上のように、女流棋士戸田おくらが、江戸徳川幕府関連の記
録に残ったのは、日本将棋が強かったかどうかは謎であっても、
チェス・将棋・シャンチー型のゲームが一般的に好きであり、
シャンチーかチャンギがある程度指せ、また、特殊なゲームを、
あえて指す面倒さを厭わずに、将軍の意向として、快く引き受
け、恐らく取り捨て型で、玉の詰み難い、日本の特に古い時代
の将棋も、有る程度、練習した事のある、というような、特殊
な棋士経歴の持ち主だったからではないかと思う。
 そもそも、日本将棋とは全く別の種類の駒名が出てくるゲー
ムを、敢えて指すという事からは、戸田おくらが、大将棋や中
将棋も、ある程度、指したのではないかと推定されるだけでな
く、”裸玉も勝ちである”という、二中歴小将棋と七国象棋の
指し方コツ、つまり相手駒を、駒得になる場合だけひたすら取
るという共通性から特に、

彼女が、しばしば日本将棋の道具を転用して、平安小将棋を、
少なくとも道楽レベルでは、良く指していた

というのは、ほぼ間違いが無いような気がする。今でこそ、
日本将棋の盤駒は、それで将棋は日本将棋しかしないが、
今よりは持ち駒ルールの開始に、時代的には近かった、江戸時
代には、”女・子供がする遊びで、平安将棋を指す”という事
は、まだかなり残っていたのではないかと、私には推定される。
(2017/01/13)