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埼玉県越谷市の吉川市川藤・須賀と接した増森の北部調査(長さん)

前々回、調査した中川、古利根川、新方川の合流地帯の川の蛇行
地帯の岸辺と思われる、埼玉県吉川市須賀および吉川市川藤の北
西側、埼玉県越谷市増森の工場団地地帯付近を、2017年1月
26日の午前にざっと調べてみた。
 前回の場所は、消えた旧中川の東岸の、円弧状の蛇行地帯の中
央やや西の点を中心として、砂ないし火山灰の堆積土壌の中に、
土器片と見られるものが、容易に見出せたので、それが、北側の、
旧中川土手外に向かって、どう分布が、続いているのかに注意し
た。
 結果、旧中川の東土手とみられる場所を中心として、土器片が
多く、北の古利根川側に外れると、そこから平行に西に、吉川市
須賀北西端の”土器出土中心点”に対して反時計回りに、古利根
川を遡るように進んでも、土器数の多い所は、特に無いようだと、
認識された。この事から、恐らく埼玉県吉川市須賀の西側、およ
び川藤の西のはずれ、この両者の境目付近に、古くから(古墳時
代ぐらいか?)の集落が、あったのではないかと、私には推定さ
れた。つまり、未だはっきりとはしないが、古利根川に接して分
布するというよりは、旧中川の旧東側岸辺に、「ひとけ」がある、
という印象である。

つまり今の所、埼玉県松伏町下赤岩よりも、吉川市須賀と川藤の
飛び地の西外れ付近の方が、より強く「ひとけ」を感じる

と言う事である。
 栃木県小山市を中心とする、下野小山氏の祖、小山政光の兄弟
関連の、下河辺氏、大河戸氏については、埼玉県北葛飾郡松伏町
に、大川戸という大字名があり、松伏町では著名なため、松伏町
だけが、特に調査が熱心であり、越谷市では、武蔵七党の野与党
や、徳川家康の鷹狩り基地の研究等に比べると、関心はいまひと
つ。埼玉県吉川市も中世・下川辺荘に属していたとの記録に関心
は有るものの、古文書に材料が少ないため、追求は低調のような
印象である。そのため、

このような状況比較は、たとえばこのケースは、埼玉県の発掘担
当者が、過去ここに、直接乗り出していれば、明らかになってい
たのだろうが。このケースのように、不運にも、現在の行政区分
の境界に、たまたま複雑に跨いで存在していたため、調査チーム
を、作る事自体が、行政の縦割り組織の関係で、現実には困難で
あった。そのため松伏町による古地名調査程度に、これまでは
留まらざるを得なかった。そうした事実があるのかもしれないと、
私には推定された。

やはり、このように複数の行政区に跨る遺跡の調査は、私のよう
な、特殊な問題意識を持った自由な民間人の方が、よく見かける
パターンで、研究停滞の打開要因になる、そんなケースが、結構
多いように思われる。そこで更に近々、東埼玉道路の近辺の、
新方川に沿って、吉川市須賀/川藤中心点から越谷市増森の新田
方向に西に向かって離れた場合は土器等の分布が、どうなるのか
等について、調査してみようと今の所考えている。(2017/01/29)