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水無瀬兼成は平安大将棋(二中歴大将棋)を知らなかったのか(長さん)

  ”大将棋の進化"と表現すると、一けん生物の進化のように、
その時代以前の生き物は滅びて、その時代には、その時代だけ
の将棋しか、生き残れていないようにイメージされるが、実際
には、記録さえ残っていれば、指して、その時代の人間が、満
足出来るかどうかは謎だとしても、古典芸能として生きること
は可能である。たとえば鎌倉時代早期の二中歴が、安土桃山時
代にも、その存在と、内容がある程度知られていたとしたら、
たとえば、その時代の将棋の研究家が、”鎌倉時代に指された
将棋”として、二中歴に書かれた将棋を”別のゲーム”として
紹介する事は、充分に出来たと考えられる。
 私見では、水無瀬兼成は、二中歴に大将棋や小将棋が紹介さ
れている事を、充分に知っていたと思う。理由は、彼は生涯、
将棋に係わっている権威者であり、人生のどこかで、当時は
ある程度出回っていた、二中歴系統の古文書に、まったく出合
っていなかったとは、到底考えられないからだ。にも係わらず、
彼の今では残された唯一の文書”将棋部類抄”で、小将棋を日
本将棋、大将棋を後期大将棋としたのは、いったいどんな事情
があったのであろうか。この点は、これまで”進化”のイメー
ジから来る、錯覚があったのだろうか。余り問題にはされなか
ったが、考えてみる必要があるように思う。小将棋については、
実はより難しいと私は思っているため、可能なら別途述べる事
にし、ここでは、このブログの表題になっている、後期大将棋
の方についてだけ述べる。
少なくとも大将棋について、水無瀬兼成は、

二中歴の大将棋の記載は曖昧で、駒種がだいぶん欠落しており、
曼殊院文書のように、図がはっきり残っている文献が、唯一
その正しい姿を示していると、仮定したのだろう

と、私は考える。二中歴と曼殊院将棋図を、水無瀬兼成は、並
列に見てみて、後者を選択し、前者は知っていたが棄却したと
考えるということである。
たとえば二中歴では、一段目の配列について、駒が抜けていた
りするし、盤升目がどうなっているのか、単に13升目と書いてあ
るだけにすぎない。二中歴の平安大将棋と、後期大将棋とでは、
一段目の配列については、石将が加わっているだけで、これに
関してだけは、かなり近い。つまり升目は15を13と間違えたとし、
①石将は、二中歴では書き忘れたと、強弁する事も可能かもし
 れない。
更に2段目以上についても、一けん後期大将棋ではたくさんの
駒種が、新たに加わっているために、二中歴の平安大将棋の配
列図を、実際に書いてみると、まったく違うような印象を受け
るが、よく考えてみると、

二中歴では実際には後期大将棋には存在する駒種が、写本の際
に、書かれてい無い駒種については全部、欠落してしまったと
無理に仮定すると、どうにも説明できないのは、”横行”だけ

に見える。
つまり、平安大将棋について2段目の横行以外を考えてみると、
②盲虎は猛虎と誤記されて、位置も金将の上を、銀将の上に、
 位置が隣1目だけ、誤記された。
③飛龍は、2段目でも、後期大将棋のように4段目でも、桂馬
 の前の方の升目であるから、曼殊院の将棋図のように解釈し
 ても、まったくの的外れではない。
であり、さらにその他の駒種として、
④仲人は、角行の上を中央と書き間違えたのだと考える。

次に成りの規則は、”同じ大将棋だったが、(イ)金将の成り
の意味を後世精査したか、(ロ)ゲームの調整で、変更した。”
と、水無瀬兼成は、みなした。そして、
この程度の変更なら、おなじゲームであるから、名前は変えな
くて良い”と、水無瀬兼成は、考えた、とすると矛盾は無いの
である。
以上のように、平安大将棋と後期大将棋とで、ゲームを2種と
認識しなければならない、厳密な根拠としては、二中歴が文書
であって、図ではなく、また水無瀬兼成の時代からみても、
380年も経っていたため、少なくとも図版を重視した水無瀬
兼成にとっては、せいぜい

横行の位置が、全く違うという一点だけが、平安大将棋を独自
種として成立させる根拠

だったのかもしれないようである。なお、遊戯史研究家の増川
宏一氏は、ものと人間の文化史、将棋Ⅰ、法政大学出版局、
1977年にて、
⑤横行は、本来竪行や角行と対や、関連する語句ではなくて、
”悪人の横行”と言うときの、暴虐無尽の”横”の横行である
旨を、示唆している。
残念ながらこの根拠が、私にはわからないが個人的に、だとす
れば、

横行は、”奔行”とでも言えるような気が私にはする。

あるいは水無瀬兼成も、この”横行問題”については、このよ
うに、同義語として解釈したのであろうか?
奔王については、すでに徳島県の徳島市の郊外、川西遺跡から
奔横という、鎌倉時代中期ころの関連駒らしき遺物が出土して
いる。

こんご、奔王、奔横、横行に加えて更に前記「奔行」駒が、

どこかの遺跡等で、発掘されてしまうと、大将棋が単一ゲーム
と、歴代の将棋史研究家に認識されながら、明らかに変化して
行った理由が、よりはっきりするかもしれないと、この部分の
学術的な発展に、おおいに期待している所である。(2017/02/02)