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栃木県小山市神鳥谷曲輪「裏一文字金角行駒」と将棋将軍徳川家治(長さん)

以前、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡で発掘された、水無瀬兼成の
将棋部類抄の摩訶大大将棋駒とすると矛盾の無い、「裏一文字金
角行駒」は、江戸時代に元尼寺で、当時新義真言宗の寺の末寺で
あった、青蓮寺の住職等が、寺の由緒を公知させるために、開基
者とも想定される、尼さんの副葬品を展示するというような意味
合いのもので、基本的には、

江戸時代に作成された、当時でも古めかしい雰囲気をかもし出す
遺品風の駒であろう

と、私はのべた。むろん、何らかの記録が当時寺に有って、それ
に基づいて、作成したのではあろうが、駒自体が異制庭訓往来の、
南北朝時代に、本当に使われた将棋駒とは、考えにくいと私はし
た。根拠は駒の五角形の形自体は、鎌倉時代から戦国時代風であ
るものの、”金”の書体の崩しが弱く、安土桃山時代の水無瀬兼
成の将棋部類抄に近いという点が、この駒については挙げられる
と考える。
 ところで、この一見すると「尼さんの遺品」としては唐突な
将棋駒に、どんな展示の効果があると、青蓮寺の住職等は考えた
のであろうか。一般の旅人が、この将棋駒を仮に、寺の由緒書き
の、建て看板とともに突然見せられたとして、何か寺にとっての
利益が、実際あるのかどうかと言う事である。以下私見だが、

小山市の旧尼寺現在廃寺の青蓮寺の住職にとって、この将棋駒に
目を留めてほしいのは、政治的な力が特に無い、一般の旅人では
とりたててなくて、ひょっとして、江戸の将軍様や、幕閣だった
のではないかと、

私は推測する。将棋駒に目を留めそうな、寺の住職にとってター
ゲットになる将軍としては、歴代の将軍の中ではたった一人、
第10代将軍の徳川家治以外に、私には考えられない。
この将棋駒の作成年代は、従って、江戸時代の宝暦から天明にか
けての、ころかとも考えられる。

また徳川家治と栃木県小山市の、この末寺との接点は、徳川家治
が、初代将軍徳川家康や第3代将軍徳川家光の霊廟のある、日光
東照宮への参拝時、たまたまここが、通過点になるから以外には
これもまた考えられない。記録によると、徳川家治の祖父で、
第8代将軍の徳川吉宗は、小山市の青蓮寺の親寺である、小山市
の持宝寺に、参拝の途中で休憩のため、足を止めたとされる。
元々小山市付近には、小山御殿と称する、徳川家康等の日光霊廟
の参拝のための、最初の頃の、歴代の将軍の休憩所があったの
だが。時代と共に老朽化して、第8代将軍の頃には使用できなく
なり、取り壊されて消失していたため、休憩地として、地元の寺
である、小山市現宮本町の持宝寺の、境内等をたまたま利用した
事が有るという話のようである。
 実際には、徳川家治の時代に、日光参拝の手配をしたとされる、
当時の老中の、田沼意次は、検討の結果、徳川家治の休憩所とし
て、小山市の持宝寺は使用せずに、臨時の茶屋の陣を小山市市内
に作ったと聞いている。なお、それも含めて、もろもろの費用を、
当時の栃木県の宇都宮藩が捻出したため、宇都宮藩の財政は、
そうとう逼迫したらしい。
 結局小山市市内の寺は、時の将軍、徳川家治には使用されなか
ったらしいが、それに関して、将軍側の重臣と、小山市の持宝寺
や、末寺の青蓮寺との間には、当然事前に接触があったのかもし
れない。そしてその際将棋の好きだった、徳川家治の注意を引い
て、できるだけ招き入れようと、青蓮寺の住職が「青蓮寺の開基
者の尼さんのものだ」と称して、摩訶大大将棋の駒を置き、
将棋史に興味を持つことを示すことによって、将軍側との友好な
雰囲気を、作り出そうと考えても、私には特におかしくはないと
思える。ちなみに、どうして将棋の駒を尼寺に置くと、徳川家治
が興味を持つと考えられるのかは、狙いは正確には判らないが、
一応、次のような事が考えられる。
 第十代将軍徳川家治には、二人の実の娘があり、二人ともに、
夭折してしまっているのであるが、妹の方はかろうじて、当時
尾張徳川藩の城主になる目前だった、徳川治休(とくがわはるよ
し)の所に嫁ぐため、婚約までは行ったらしい。当然、将棋の好
きな徳川家治なら「武家の地方大名に嫁ぐ姫君は、合戦で、夫が
不在で、鎌倉時代草創期の小山政光の妻の、寒川尼のように
代わりに、家来を率いて出陣するとき、合戦参謀としての能力が、
要求される事になり、徳川太平の江戸時代とはいえ、尾張徳川藩
に自分の娘を嫁にやるとなれば、将棋道具を含む三面の用意が
必要」と意識していたに、違いなく、その南北朝時代版とも言え
る将棋の駒を、青蓮寺に手回し良く展示してみせれば、「武家の
妻の心得の嫁入り道具の起源」といった、シキタリのルーツの
うんちくに絡んで、徳川家治なら、小山市の青蓮寺の由緒に、
一応目を向けてくれるかもしれないと、期待したのであろう。
 ちなみに、徳川家治は、将棋の相手として、当時宇都宮藩の藩
主であった、戸田と同じ苗字の当時の将棋女流棋士、戸田おくら
をも大奥から招集していた。それでよりいっそう、鎌倉時代の
小山氏や乃木ノ宮の戦いの歴史と関連する、小山市の青蓮寺で
眠る合戦参謀、「宇都宮家から来た女性」には、当然興味を示す
だろうと、青蓮寺の住職等は考えたのかもしれない。
つまり、将棋史研究家と疑われる、当時の小山市の青蓮寺の住職
等の狙いは、

将棋に絡んで徳川家治の娘の、徳川万寿姫。戸田おくら、寒河尼、
おそらく小山よし姫の4人を、合戦時の参謀に適した人材である
”女流棋士風の女性”という意味に於いて、ニヤリー・イコール
で結びつける事によって、
第10代江戸将棋将軍徳川家治の関心を引き、更に法事を担当す
る、時の権力者、老中田沼意次等の幕閣要人との繋がりや、
加護を、できるだけ引き出そうという、何処でもやっていたと
見られる、政治的な算段だったという事である。

 以上の事から、寺の開基の尼さんの副葬品として、履いていた
とされたとみられる下駄とクシだけでなく、この場合は、南北朝
時代風の将棋の駒を置くという、いっけんすると異形な組み合わ
せは、実は特定時代の徳川江戸将軍、第10代徳川家治が、たま
たま将棋好きであったための、江戸時代の将軍からみの現象であ
る可能性も、にわかには否定できないように、私には思えるので
ある。(2017/02/03)