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日光「香車堂」と徳川家治(長さん)

前回「栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の裏金一文字角行駒は、
小山市の現廃寺、青蓮寺の寺の関係者により、江戸宝暦~
天明期に製作されたものであり、時の将軍で将棋の高段者、
徳川家治の観覧を狙ったものである疑いがある」との旨を
のべた。とすれば、徳川家治が、徳川家康・家光の霊廟を
訪れた西暦1776年の際、観覧可能なような、小山市の
青蓮寺と類似の宗教施設が更にあったとしたら、家治の影
響説は、更に有力になるだろう。実は、小山市神鳥谷曲輪
の角行駒よりも、日光東照宮の参拝に関連して、更に有名
な”将棋の駒”は、以前から良く知られている。栃木県
日光市の日光東照宮に至近の、滝尾神社の参道付近に今も
存在する、香車駒群を有する

香車堂である。

徳川家治の将棋好きは有名であるから、東照宮自体に付設
された、この宗教施設”香車堂(観音堂)”に関心が全く
無いとは、到底考えにくい。
 現在香車堂は、”産の宮”と言われ、出産期の女性に
信仰されているものである。すなわち、安産祈願のため、
「前に”直”すぐに、香車の動きと同じく進む”子”」の
出産を願って、かなり大型の、香車駒のモニュメントを、
日光の観音堂の前に立てておくという習慣があるとされる。
 私も一度だけ、実際に現場を訪れた事があるが、輪王寺、
東照宮、日光二荒山神社からは別筋の、滝尾神社に付設
されて、香車堂は置かれているという点に、まず基本的な
特徴がある。
 また置かれた香車駒は、差し渡しが、普通の香車駒に比
べて一桁大きい、木製だが特注品である。現在はたぶんに
観光用に脚色されて、このような景色になっているので
あろう。ただし、江戸時代の頃には実際の、その当時の
将棋駒が、ここに置かれていた可能性も、充分にあるかも
しれないと、私は期待する。なお現地は、今も、静かな
”林”内の、落ち”葉”の散乱する場所にたたずむ。
 今の東照宮全体から見ると、滝尾神社自体が、素朴な
信仰の場所という、雰囲気である。たぶん家康の霊廟が
できる前には、より西方に位置する、二荒山神社が滝尾
神社の所に有り、徳川家康の霊廟ができると同時に、
二荒山神社自体が、位置を西に約1km程度、シフトした
ように私には見える。その根拠は、二荒山神社・滝尾神社
共に、神殿等の形式について、それぞれに、神社らしい
形を整えている点は良いとしても、
二荒山神社には”二荒霊泉”、滝尾神社には”酒の泉”
と、両方に全く同じ、酒蔵用の水源を、神社一般に、かな
らず無ければならないと、いうほどのものでは無いものが、
それぞれに不自然に持つ等、”同じ施設を壊さずに、移し
変えた”感が、ありありと見える2つの神社である、とい
う点が挙げられると私は思っている。

つまり、滝尾神社は安土桃山時代までの、日光二荒山神社
だったらしいと、言う事である。

 なお恐らくだが、滝尾神社を、二荒山神社の位置に、
シフトさせたのは、南光坊天海だろうと私見する。シフト
させた原因は、男体山が、滝尾神社からは、女峰山より
も遠いために、やや低く見えるという景色が、徳川家康を
男体山になぞらえて眺めたときに、天海には気に入らな
かったからだとみて、間違いないだろうと、私は思ってい
る。なお天海が、景観を気にする人間である事は、彼が、
”明智平”を命名している点からみて、明らかである。
 さて、宇都宮市市内と、日光市の二荒山神社は、ともに、
鎌倉時代から、神官出の武家の豪族、宇都宮氏の所有であ
った。つまり、現在の日光二荒山神社よりも、滝尾神社
の方が、中世の豪族、宇都宮氏にちなんだ遺物が、残され
ていると期待して、良いという事だと思う。そこで、いろ
いろな意味を持つ、滝尾神社近くの香車堂の、観音なの
だろうが。恐らく日光にも力を有した、中世の小山氏によ
って、室町時代ころに、寒川尼の元仏との意味も付与され、
さらに、前回のべた”合戦の参謀を務めるには、形勢判断
が、将棋棋士のように大事”の将棋ゲームの常識から、
それに精通した徳川家治の治世の頃、”将棋の女流棋士
タイプの、合戦の参謀に適した女性”を象徴させて、更に
女性の芳しさをイメージして、芳しい~お香~香車と連想
させて、観音堂に香車駒が置くという、習慣が始まったの
であろう。また、ほぼそれと同時に、寒河尼~姫様~女性
~お産とも連想されて産の宮になり、こちらの方が、判り
やすさからメジャーになり、こんにちも、産ノ宮として、
観音菩薩の香車堂が伝わっているのであろう。
 なお、現在のように、栃木県日光市の日光滝尾神社に、
きちんと香車駒が奉納されるようになったのは、小山市
神鳥谷曲輪の江戸天明期には存在した、小山市の青蓮寺に、
裏一文字金角行駒が置かれていたのと、ほとんど理由が
いっしょなのではないかと、私は疑う。
つまり、これらはすべて老中で、徳川家治の法事担当の、

田沼意次に示唆されて、作成されたものかもしれない、

という事である。その証拠に、小山市の青蓮寺の裏一文字
金角行駒の、嫁入り道具持ち主の尼、ひょっとして、
小山よし姫は、音が一緒なら、字を当てる習慣が始まった、
恐らく江戸時代より、香車の香の字の芳しさを連想させる、
”芳姫”の字が、現在のように、しばしば当てられるよう
に、なっている。
 以上のように、第十代将軍徳川家治は、先だたれた、
妻および下の娘、万寿姫の遺品、嫁入り三面の将棋具を、
思い浮かべつつ、徳川家康の霊廟に参拝に赴き、その際に、
栃木県小山市で角行駒を、栃木県日光市で、複数の香車駒
を見学し、時の老中田沼意次等の、法事のプロモーション
能力のおかげで、当時入れ込んでいたといわれる、趣味の
心も同時にある程度満足させ、一応上機嫌で江戸城に帰る
事が、できたのではないかと私は想像する。(2017/02/04)