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静岡県焼津市小川、小川城出土中将棋駒と、火付盗賊改長谷川平蔵および、徳川家治(長さん)

 テレビ時代劇「鬼平犯科帳」で有名な、江戸時代の藤原秀郷流長谷川氏
の子孫・長谷川平蔵(長谷川宣以)は、前に日光参拝で、栃木県小山市神
鳥谷曲輪摩訶大大将棋・角行駒との繋がりが淡く予想された、江戸時代の
第十代将軍、徳川家治から次の代の家斉の時代の人物である。そればかり
ではなく、webの情報からも明らかな通り、彼は、

江戸宝暦~天明期の徳川家治の時代の、女流棋士として知られる戸田おく
らの兄である、戸田倉之助と同じ、書院番の職場に1年間だけだが、居た
事がある。

しかも、その時期は、老中田沼意次の陣頭指揮で、徳川家治が日光参拝を
行った時期にごく近い、2年前~1年前の事だった。更に徳川家治の日光
参拝の時期には、西の丸仮御進物番となり、田沼意次への、賄賂を取り次
ぐ役目をはたしていたとされる。つまり徳川家治の日光参拝の頃には、
長谷川平蔵と、田沼意次とは、きわめて親密な関係だったのである。
むろん田沼意次が、将棋将軍徳川家治の腹心の部下であった事は、余りに
も有名であるから、

徳川家治、田沼意次、長谷川平蔵、戸田おくら、これらの人物間には、将
棋という線でも、つながりがあるのではないかと、疑われるのである。

他方、長谷川平蔵の祖先は、静岡県焼津の小川城の城主であり、ここから
は、駒数多数系の将棋である、中将棋駒が二枚出土している。

よって、長谷川平蔵が「南北朝時代には、水無瀬兼成の将棋部類抄の、摩
訶大大将棋のごときの、駒数が多く、盤升目が361升目の将棋が指され
ていた」というような、長谷川家先祖よりの将棋史に関する情報を持って
いて、それが、西暦1775~6年頃に、田沼意次経由で、小山市神鳥谷
曲輪の当時、新義真言宗の末寺で、室町時代には尼寺であったと伝わる、
小山市の青蓮寺にほのめかされると、住職も、長谷川平蔵と同系統の種族
だったため、小山市の天満宮別当の関係で繋がりがある、曼殊院よりさっ
そく水無瀬の将棋部類抄を入手、調査の上で、栃木県小山市神鳥谷曲輪、
2007年出土の裏一文字金角行駒を作成。その結果結局、

中将棋を指していたと見られる、静岡県焼津市小川城城主の子孫である、
長谷川平蔵の情報を元に、小山市神鳥谷曲輪出土の、裏一文字金角行駒が、
巡りめぐって製作される、そんなつながりの可能性が、示唆されていると
いう事なのかもしれない。

あるいは、田沼意次の示唆で「栃木県小山市神鳥谷曲輪、摩訶大大将棋の
駒」が作成された際、小山市の青蓮寺の住職からの、将棋史に関する情報
を、田沼意次は聞き取った後で、長谷川平蔵に、問いただして裏を取った
のかもしれない。何れにしても田沼意次、長谷川平蔵、小山市の青蓮寺住
職間の情報交換の過程で、妻や娘を亡くした直後で、失意の将棋将軍、徳
川家治を慰めるため、栃木県小山市神鳥谷曲輪の、日光街道ほぼ沿いの、
青蓮寺に、南北時代風の”守護大名や近世大名等、大名類の姫様の三面の
意味の将棋駒”が、陳列される事になったのだろう。法事の際に、徳川家
康や家光の供養だけでなく、徳川家治自身の妻や、尾張徳川の徳川治休に
嫁ぐはずが、病死した次女の供養のために、そこに案内され、徳川家治は、
”田沼意次の日光参拝の法事は上首尾だ”と、評価したと当然見られる。
つまり、

このイベントのほぼ直後から、田沼時代を出現させる一要因となったのか
もしれない、摩訶大大将棋風角行駒の”作品”は、こういう経緯で”この
ときに出来上がった”可能性も、あるいはあるという事なのかもしれない。

 以上のように長谷川平蔵は、晩年の火付盗賊改の時代の活動や、人足寄
場の建設の業績が更に著名だが、彼が若かった徳川家治の時代には、同じ
職場、書院番の同僚の妹で、当時徳川家治の将棋仲間である事で知られた、
戸田おくらの存在は、同然知って、徳川家治の好きな将棋史に、彼自身も
興味を持っていたに違いない。そのため、その1~2年後、そのときの上
司の田沼意次に頼まれれば、西の丸仮御進物番の時代に、焼津駒出土の小
川城城主の子孫として、将棋史に関する情報提供者としての、何らかの将
棋史への関与が、ひょっとすると、あったのかもしれない。つまり彼の、
先祖から受け継いだ、将棋の歴史に関する知識能力が生み出した、何らか
の遺物の存在を、その出自からみて、期待を一応しても良いのではないか
と私は考えるのである。(2017/02/14)