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埼玉県南東部洪水ハザードマップ、屋敷附と屋敷通の謎(長さん)

前回、鎌倉時代中期に、埼玉県北葛飾郡松伏町松伏~下赤岩付近に、
古利根川等、大きな川は無かったとの説を紹介したが、最近、それ
に関連して、不思議な3つの地名の組み合わせを、発見した。文献
は、2つが、埼玉県南東部広域洪水ハザードマップ作成協議会が、
平成20年に作成した、洪水ハザードマップであり、残りがweb
上の地名である。
 前に「埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩に、字名で屋敷附という所が
あり、web上で、鎌倉時代始めの頃に、下河辺行平の長男の、
下河辺行光の屋敷に、因むかともされている」と述べたのであるが、
今の古利根川を跨いだ、その南の近くに更に2箇所、「屋敷」の付
く地名があるのを、上記洪水ハザードマップ等で発見したのである。
なお、下河辺行光は、江戸時代の火付け盗賊改めで有名な、長谷川
平蔵の先祖で、静岡県焼津市の小川城の戦国時代の城主、小川法長
者の更に10代位の先祖の、下河辺政義の甥にあたる人物であり、
小川法長者について、彼の城跡である焼津の小川城跡から、
裏飛鹿盲虎と裏飛鷲龍王という、中将棋の駒が1枚づつ出土
した事で、下河辺氏や下河辺行平の従兄弟の子孫の小山氏は、駒数
多数将棋と関連していると疑われたとの事だった。なお小山氏と、
駒数多数系将棋の関係については、栃木県小山市神鳥谷曲輪という、
栃木県の小山城至近の遺跡で、裏一文字金角行駒が、2007年に
発掘され、既に駒数多数将棋との関わりが、証明されていると、
私はこのブログでも既に説明している。
 さて話は遠回りしたが、ここで言う2番目の「屋敷」とは、以前
最もヒト気が多いとの、調査結果をここで書いた、埼玉県吉川市須
賀の字地名の屋敷通の事で、これが前記洪水ハザードマップに書い
てあるのを、ここに来てようやく見つけたのである。正確には、
そこは吉川市須賀の北端に位置し、同吉川市川藤との境の、せいぜ
い、350m四方以下の領域を、そのように言うように、地図から
は読み取れる。吉川市須賀には、香取神社が一つあるのだが、それ
を含んで、それからその西の領域の事のようである。

なお埼玉県吉川市須賀字屋敷通は、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩
字屋敷附の、わずかに1.1kmほど南東の地点である。

 ところが、更に調べてみると、もっと驚くべきことが判った。
埼玉県越谷市増森の丁目無しの1000番代領域を、
埼玉県越谷市増森字屋敷通と呼ぶとの情報を、webから得たので
ある。つまり、屋敷通は、2箇所あり、実は、
埼玉県越谷市増森字屋敷通は、埼玉県吉川市須賀字屋敷通の北西
600mの地点と、互いに至近なのである。つまり、越谷市増森字
屋敷通は、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩字屋敷附とも、近いという
事である。事実、埼玉県越谷市増森字屋敷通は、埼玉県北葛飾郡
松伏町下赤岩字屋敷附の南東500m、つまり越谷市増森字屋敷通
は、松伏町下赤岩字屋敷附と、吉川市須賀字屋敷通の、だいたい真
ん中に、数百メートルづつ、間を置いて存在するのである。

しかも今の、埼玉県越谷市増森丁目無し1000番代地点と、今の
同埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩の間には、現在は古利根川が流れて
いるのである。

 更には以前にも紹介したとおり、じつは、今は越谷市増森丁目
無し1000番代地点と、同埼玉県吉川市須賀とは、現在は陸続き
で、東埼玉自動車道の北端を横断すれば、今は行けるのだが、
室町時代の享徳の乱から大正時代までは、古利根川は蛇行しており、
もう一回、当時の古利根川を横断しないと、行けない場所だったの
である。

つまり、これらが元々は一続きの地名だとすれば、享徳の乱から
大正時代までの裏返しS字に蛇行する古利根川で、お互い同士が
分断されてしまうという、地名の付け方の不自然さがあるのである。

この事からひょっとすると、これらの地名は、古利根川が前回述べ
た文献によると、松伏町松伏~赤岩には無かった時代に付けられた、
非常に古いものであり、よって埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩字
屋敷附という地名は、室町時代前期、以前の地名であると、証明さ
れてしまう、可能性があるいはあるのかもしれない。

つまり鎌倉時代前期に、今の埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩字屋敷附
に、下河辺行光の屋敷が、あった可能性も、あるという事である。

 意外な発見が、町で何の気なしに見かける一般配布の防災マップ
に隠されている事があるものだと、私は以上の事実を知って、今回
とても驚かされたのである。(2017/03/12)