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日本の代表的将棋種に龍駒が複数有る理由(長さん)

後期大将棋では、平安大将棋より継続して飛龍駒があるだけでなく、
龍王、龍馬という龍駒が複数加わる。このような例は、他の動物種
については無い。そのため、これと少なくとも関連する中将棋でも、
飛龍が消えるだけで、龍駒が4枚残るため、その全体の駒数に対す
る割合が、後期大将棋に対して余り減少しない。なお、摩訶大大将棋
については、全体の駒数が後期大将棋よりも増えるが、臥龍や奔龍
が加わり、更に江戸時代になると、麒麟の成りが大龍に変化した為、
後期大将棋よりも、龍駒の割合が減少せず、やはり多い。なお、
中将棋に龍駒が多い結果が、日本将棋にも、複数龍駒がある事に、
反映されている。今回は、このように強い動物とは言え、日本の将棋
類に、龍が多いように見えるのは、何故なのかを考えた。
 それで昨日、黒田日出男著「龍の棲む日本」という岩波新書本を
読んだ。すると「西暦1274~81年前後の蒙古来襲のおり、龍の
形を象った日本地図が複数作られて配布され、『日本が龍に守られて
いる』という内容の、一応それ以前から有る神話が、国内では特に
宣伝されていて、国内に龍神話が広まっていた時代であった」との旨
の記載が有ると、私は読み取った。
 この事から、先だって亡くなった、将棋研究者の溝口さんとは、
対立して申し訳ないのだが、やはり

普通唱導集の大将棋にも龍王や龍馬は有り、しかもそれらの駒が、
唄われた大将棋に導入されたのは、これが作られた西暦1300年
前後からみて、たかだか20年位前でしかない、実質的には、直前
と言ってもよい、時期だった可能性も充分にある

ように、私には思えた。逆にもしかすると、次のようにも言えるので
はないか。つまり、

普通唱導集の大将棋が仮に、定説のように後期大将棋の事だとしたら、
後期大将棋は蒙古来襲の頃に、製作されたかもしれない、ということ

だと私は思う。何れにしても、普通唱導集の大将棋は、作られてから
だいぶんたった後に、たまたま唄われているのではなくて、その時点
から見て、最近に完成したゲームについて、早くも「定番の端攻め
定跡がある」、という、”欠陥”が述べられているのかもしれない。
 なお1260年代に作られた、金沢文庫所蔵の「日本図」に、注釈
として「当時の高麗は、征服されて元側だ」と、日本側が正しく認識
していると、とれる語句があるという。そうだとすれば、元寇の頃に、
14×15路の広将棋が、高麗から日本に紹介されたとしても、13
升目の平安大将棋について、その時点で日本の将棋指しに、正統性に
関して、ある程度の確信があったとすれば、”敵国”の「15路が正
統」の主張には、耳を貸しにくい状況ではないかと、私には疑われた。
 つまり、普通唱導集大将棋が定説のように、後期大将棋だとしたら、
後期大将棋が15×15升目なのは、「たまたま」以外には、理由を
考え出すのが難しいのかもしれない。また江戸時代に大将棋が、
広将棋の別名とされたのも、朝鮮半島から広将棋が伝えられたとされ
るときに、15という数字で一致するよう合わせたというのとは、
全く別の、何か未知の理由で、そういわれるようになった、いう事に
なってしまうのだろう。

だからといって、これだけでは、「普通唱導集大将棋が後期大将棋で
はない」という証拠としては、少し弱いのだろうが。

 他方、龍駒が導入されたときと、将棋が15升目に変化した時代と
は別だと考え、後者が明と李氏朝鮮が、存在するようになった時代だ
と考えれば、少し前の広将棋情報が、李氏朝鮮から入って、適度にほ
とぼりがさめた頃に、日本で権威づけがされれば、室町時代の日本人
なら、「正統な大将棋は、鎌倉初期の13升目の大将棋ではなくて、
15升目のそれ」と、あるいは思うのかもしれないと私は一応考える。
(2017/04/11)