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栃木県小山市神鳥谷曲輪裏一文字金角行駒が小山よし姫墓副葬品である根拠(長さん)

栃木県小山市が作成した、小山市の小山城に至近の、遺跡発掘報告書、
「神鳥谷曲輪遺跡発掘報告Ⅰ」に準拠すると、その8号井戸跡から出土
した品のうち4品、

1.裏一文字金角行将棋駒
2.(多少損傷した?)櫛
3.下駄
4.手火鉢(計2箇所で出土)

は現在、中世遺跡の生活道具ではなくて、”小山よし姫墓の副葬品と伝
えられる物品”だと私は見ている。ちなみに状況として、この4品は、
前記発掘報告書のⅠを見る限り、かわらけ等、至るところから出てくる
遺品とは異なり、同じ遺跡内でも別の場所、特に8号井戸以外の、別の
井戸跡等からは、ほとんど出てこない”特異物品”である。
これらの4品が、仮に遺跡内からアトランダムに出土し、将棋の駒が、
ありきたりの小将棋の駒だとすれば、いわゆる中世遺跡のうち、有力豪
族の城跡から、出土してもおかしくは無い、中世遺跡からしばしば出土
する品々の、単なる合算に過ぎなかったと思うのである。
 ただし、文化庁文化財記念物課が2013年に発行した、調査手引書、

「発掘調査のてびき」(編集・奈良文化財研究所)によると、通常、
上の2.の櫛については、中世の墓の副葬物として出土する典型物品

だという。
なお、神鳥谷曲輪遺跡は、第2次小山義政の乱の小山氏方戦陣として名
高い。が同時に現地は、青蓮寺堤との字地名が残る所で、江戸時代ま
では、戦国時代以前には尼寺だったと伝わる、江戸時代に真言宗系の寺
だったとみられる、青蓮寺という寺跡である。よって亡くなった女性
の墓の副葬品が、ここから仮に出ても、おかしくない場所である。
 以上の事から、この将棋出土駒は戦陣で、摩訶大大将棋を指して遊ぶ
ためのものではないと私は考える。すなわち、これはもともとは、
小山よし姫という、豪族の殿様の、奥方の嫁入り道具の一部で、第3次
小山義政の乱に於いて、彼女が、若くして亡くなったために、祭った寺
の、副葬品と言われて”伝わる物”と、私は推定するのである。
そしてその根拠としては、同じ井戸で出土の

やや変わった形をした櫛の存在が、あげられると言う事である。ただし
私の認識では、はっきりと、考古学の専門書を参照して示せる根拠は、
今の所、これがほぼ全てだと、言えると思う。

もっとも我流で分析すれば、他には、「下駄が、現代人が使用するとす
れば、女性のサイズである」点を、一応挙げる事は出来るかもしれない。
以上の事から結局、この私が調べても、非対称形の理由が良くわからな
い、片方に突起のある、かんざしのようにも見える櫛一品は、ここで
出土した特殊な将棋駒とともに、それに優るとも劣らない、たいへん
重要な物品だと認識される。
 そしてその結果、この将棋駒が、小山よし姫の嫁入り調度品と
”伝えられる”点の重要性は、

小山よし姫について述べた、鷲宮神社の社殿の改築用費用の出資者を示
す棟札に、”小山よし姫は藤原氏姓の女性である”との旨が書いてある、

この一点に集約されると、私は思う。
つまり、藤原氏は駒数多数将棋、たとえば、南北朝時代には、摩訶大大
将棋を指す一族だと”されている”点が、大事なのだと思う。
 藤原氏に関しては、院政時代後期の藤原長者、藤原頼長が台記で、

「将棋を崇徳上皇の御前で指して負けた。が指して私が負けたのは、
 大将棋でだ。」

との旨、はっきり書いているので有名だ。そしてさらに少なくとも、
平安大将棋等の駒数多数系将棋が、藤原一族お家芸のゲームであるとい
う推定を、神鳥谷曲輪遺跡の裏一文字金角行駒もまた、サポートしてい
るのだと私は思う。すなわち、藤原頼長の日記の記載だけなら偶然だが、
小山よし姫の嫁入り道具も、それを示唆していると言う事だ。実は更に
は、両面飛龍駒が、ゆかりの地の近くの、志羅山遺跡から出土した、
奥州藤原氏も、大将棋の棋士だと私は考えている。そこでこうも続けば、
藤原氏と大将棋との関係は、例が多くて偶然とは、とても言えなくなる
と言う事だと、私は以前から思っている。
 むろん、藤原頼長と、小山よし姫、奥州藤原氏の誰かの計3人が、
大将棋系の将棋を指したから、日本には小将棋以外にも、大将棋が確立
された、とはぜんぜん言えない。しかし、ここには、小将棋と大将棋の
並存について、何らかの興味深い事情が、存在したのではないかとも、
示唆されているのではないかと私は思う。
つまり私が思うには、
8×8升目32枚制原始平安小将棋とは、そもそもが、藤原氏による
摂関政治下での、武家の出世(実際より約150年前の、平家の成り上
がりのような姿)を、歩兵の4歩進んだだけの成り金=副官化が模した
もので、異国の風物に詳しい宋商人により、西暦1000年頃わが国に
伝えられて、当時大宰府で一大旋風を巻き起こして、将棋として始めて、
わが国では流行り、後の全ての日本の将棋の礎となったゲームの事。
9×9升目36枚制平安小将棋とは、江戸時代の伝説がある面で正しく、
後三条天皇の進める院制派の大江匡房が、藤原氏の摂関政治を終わら
せ、院制へ移行させるための政治的意図をも滲ませながら、玉将を王将
に少なくとも部分的には交換して、ぴたりと中央に配列する等、それま
では混乱が見られた、原始小将棋を西暦1100年頃に整備・標準化し、
これがもとで、のちに江戸時代に彼が、これとは別のゲームである
”日本将棋の確立者”だと、誤って評されてしまう原因ともなった、
取り捨て型の小将棋ゲームの事。
13×13升目68枚制平安大将棋とは、9×9升目の取り捨て型の
平安小将棋が不出来である事を、口実として利用しながら、摂関家とし
ての、藤原氏の勢力を復活させようとの、反藤原派への牽制の意味をこ
めて1150年頃に、長者の藤原頼長自身が、積極的に参加・推進した、
反藤原派の作成した、標準的な9×9升目平安小将棋を、超えることを
意図して藤原氏が推進・お家芸化した複雑系ゲームの事。
 以上のように私は考える。
 つまり上に述べたような、平安後期~末期の、政治の著名な流れに
絡んだ、将棋ゲームの進化事情が含まれていると、私には意図が、淡く
だが感じられるという事である。従って、将棋の変遷の研究というもの
は、単なる娯楽の範疇の、遊戯史の研究題材の一つという意味だけでは
なくて、

日本史上の政治史全体の流れが、ひょっとすると底流にある、興味深い
現象であり、それゆえに、たとえば平安大将棋が何故、ある程度指され
たのかを解明する事にも、それなりの重要性が有る

と、以上のような私なりの見方で、上記のように結論し、いまこのブロ
グを構築していると言う訳なのである。(2017/04/14)