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埼玉県南埼玉郡杉戸町鷲巣周辺の下河辺荘のチェック(長さん)

4月23日、埼玉県南埼玉郡杉戸町目沼、鷲巣、および埼玉県春日部
市西宝珠花(にしほうしゅはな)付近をチェックした。なお、杉戸町
目沼には、目沼古墳という6世紀から7世紀にかけてのものではない
かという史跡がある。
 そもそも、この地域をチェックしたのは、南北朝時代に第3次
小山義政の乱が終結した際、室町時代の小山持政ころの小山氏家伝に
よれば、
「もともと南北朝時代中期には小山氏の領地であった、下河辺荘の
鷲巣郷を、小山義政の乱の終結に際して、鎌倉公方の足利氏満が、
小山氏から戦利品として取り上げ、氏満の配下の梶原道景に与えた」
という記録から、神鳥谷曲輪遺跡将棋駒と関連する、南北朝時代の
栃木県小山市に居住の、小山氏の大将

小山義政と、下河辺荘鷲巣郷すなわち、埼玉県南埼玉郡杉戸町鷲巣
とは繋がる

と私は見たからである。実際には下河辺荘鷲巣郷というのは、最近に
なって把握した。ただし、以前からJR宇都宮線の東鷲宮駅近くにあ
る鷲宮神社に、小山義政は刀を奉納したり、小山市小山城の南西に、
鷲城を作ったりしているので、埼玉県南埼玉郡杉戸町鷲巣という
地名に、私が小山氏臭さを感じていたことは事実である。なお、第3
次小山義政の乱(西暦1382年)以後、鎌倉公方の足利氏満が、
小山義政から取り上げたと、される領地には、他に埼玉県越谷市付近
の下河辺荘新方郷や、埼玉県北葛飾郡松伏町付近の下河辺荘赤岩郷の
記録もある。が、このへんは既に調べてある。また埼玉県さいたま市
岩槻区付近もそうだが、ここは個人的には、数十年前に良く行った事
のある場所であり、現在はかなり開けて、地上を見て遺物が見つかる
環境では無いと把握している。蛇足だが中世史家は、この”鎌倉公方
の小山氏からの取り上げ領地のリスト”から、小山義政時代の、
小山氏の領地の最大版図を、推定していると聞いている。
 さて実際の調査は、杉戸町深輪でバスを下車し、同産業団地から
鷲巣鷲神社へまずは行ってみた。いかにもソレという名前の神社だが、
特に小山義政臭さは、感じられなかった。ただし、立て看板によると、
西暦1299年記銘という石碑が、この神社に残っているといい、
小山義政より前の鎌倉時代後期ではあるが、普通唱導集の成立年代と
は、ぴったり同じなので、その石碑の話には興味を引かれた。ただし、
現物がどれの事なのか、私には良くわからなかった。
 現鷲巣の地名のついた場所については、鷲神社から鷲巣のバス停を
超えて、鷲巣の場所を幹線道路375号線に沿って往復した。道路脇
を見ただけなのではっきりとはしないが、「古墳が分布する」とされ
ているものの、地上を見ただけでは良くわからない。なお、鷲巣を
北西に抜けて、埼玉県南埼玉郡杉戸町宮前、同杉戸町目沼と進み、
目沼古墳へ向かった。
 ちなみに、埼玉県南埼玉郡杉戸町目沼より北の下河辺荘では、茨城県
結城郡五霞町小手指の間に、せいぜい同じく同五霞町の原宿台貝塚が、
それらしい地形の場所として、見残した程度だろうと、私は見る。
 さて、それで目沼古墳についてだが、この古墳は特に整備はされて
はおらず、雑然とした住宅地の中に、数メートルの小山が有った。
また、周囲に特に遺物の散乱は無かった。なお、鷲巣付近にも遺物は、
私には見つからない。そこで杉戸町鷲巣を、375号線に沿って往復
した後、今度は南東に出て、同じく375号線に沿い、埼玉県南埼玉郡
杉戸町木野川、埼玉県春日部市西親野井、同春日部市西宝珠花と、
江戸川沿いを調べた。ここも幹線道路沿いを見ただけだが、特にヒト気
や遺物は無いようだった。埼玉県春日部市西宝珠花には宝珠花橋という
橋が、江戸川に架かっており、橋のたもとが、少し開けている。今年の
ゴールデンウィークには、ここの大凧公園で、凧揚げがあるらしく、
宣伝の看板が立っていた。なお、たぶん西宝珠花の大王寺という橋の
たもとの、寺のあたりだと思うが、戦国時代の武将の館跡があると、
ものの本で読んだ。大王寺は今回は、看板だけ見て通り過ぎた。
 結局埼玉県南埼玉郡杉戸は町であるが、そのはずれに近い鷲巣も、
比較的開けた場所で、住宅も結構建っていた。中世の面影は、残念な
がら、この一帯では検出できなかった。(2017/04/24)