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普通唱導集大将棋は104枚制か108枚制か(長さん)

普通唱導集大将棋の将棋の面白さとしての性能は、104枚制と
108枚制とで大差はないと私は考える。ここでは、文化的な
側面から、108枚制の方が、確立されたゲームとしての権威を、
日本の中世に於いては、保ちやすいと言う観点から、108枚制
ではないかという点について述べる。なお現代人がこの点を理解
するには、

お寺大晦日の除夜の鐘の数の将棋が、昔有ったと言うのは
尤もらしいから108枚なのだ

と表現した方が、何を言いたいのか、直接的で判りやすいかも
しれない。つまり、

私の108枚制の普通唱導集大将棋の駒数は、人間の煩悩の数に
由来しているのである。

 普通唱導集は西暦1300年頃の作であるが、それより少し後
の南北朝時代の異制庭訓往来に、将棋の説明があり、
「小さいもの(小将棋)の駒の数は、36の獣の列位を象り」と
あって、この36の獣とは、座禅を組んでいるときに、行の邪魔
をする、人間の煩悩に由来する魔物を表すと、増川宏一先生が、
「ものと人間の文化史 将棋Ⅰ」で解説されている。なお、将棋
の駒が、仏教的に煩悩を表すという、別の根拠としては、最近
曼殊院で発見された、中将棋の駒の字を習字の手本にした、江戸
時代初期作とされる「将棋馬写」という書に、邪念の「邪」の字
を書く練習が何度か現れている点等を、挙げる事ができると思う。
 ちなみに辞書を適宜調べると、この36の獣が現れる時期を、
現在・過去・未来に分類して、108とするのが、除夜の鐘が
108つ、つかれるときの、鐘の数の根拠になる煩悩の数の
説明となっている。つまり、

9×9升目36枚制平安小将棋のちょうど3倍の、108枚制で
鎌倉時代後期に大将棋が存在するというのは、将棋の駒を煩悩
の数と合わせるという事からすると、かなり尤もらしい

事なのである。ちなみに13升目盤に108枚の駒を、本体が概ね
計8列になるように並べると、どうしても、びっしり駒が並ぶ
形になってしまう。駒数多数の将棋で、摩訶大大将棋以下では、
自陣に、初期配列で空の升目が必ずあるため、普通唱導集大将棋
を104枚制にした方が、他の例と同じになっている、という別の
尤もらしさは確かに有る。しかし、小将棋の3倍ちょうどの駒数
を、大将棋の駒の数にしたというのは、上記観点からすると、
よりありそうだし、

水無瀬兼成が成立に絡んでいると疑われる泰将棋や、江戸時代に
大橋家が成立に絡んでいると疑われる大局将棋が、自陣初期配列で
空き升目の無い将棋であるから、他例が全く無いとは言えないと
考える。

それに、そもそも駒がびっしりになったのは、事実上平安大将棋
を骨組みにして、新たな駒を機械的に加えていった結果、遂には
満杯になってしまったという経緯であるから、こうなってしまった
理由は、理不尽とまでは言えないだろう。私は、

しょせん、二中歴の平安大将棋の権威が続いていた以上、他人に
新たな大将棋が認められるには、平安大将棋の元々の駒配列に、
新たな駒を加えるより、その新大将棋の生き残りの道は無かった

という観点からも、普通唱導集大将棋の形を限定している。以上
の事から、私の仮説13×13升目駒数108枚制の大将棋は、
仏教文化が支配していた日本の中世の感覚と、大きく違っている
という理由で、有り得ないという事は少なくとも無い、大将棋の
一つの仮説モデルだと、私は現在考えているのである。
(2017/05/13)