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大理国の多素材仏教造形物が埼玉県児玉郡美里町でも出土している(長さん)

以前、大理国のあった雲南省大理市の遺跡で、その時代の崇聖寺千尋塔
の主塔の内部から、複数種類の貴金属を素材として使った、小型の仏像群
が出土し、雲南省博物館のカタログに載っている事を指摘した。しかも、
同様の例は、中国のほかの地域には、見られ無いようだとも述べた。
 その後、他の国の例についても捜索したところ、ごく最近になって、
日本の埼玉県児玉郡美里町の広木上宿遺跡から約25年前に、仏像では
ないが、同じく仏教関連の造形物である、ミニチュア宝塔が、5種類
別々の貴金属で同時に作成され、遺物が出土している事を私は知った。

 しかも、その大きさは3センチから概ね5センチ位で、チェスの駒に
近いものである。

 材質は、金、銀、銅、金銅、鉄の5種類で、宝石玉の宝塔は無いが、
金銅製が加わり、平安大将棋の将駒、および13×13升目108枚制
普通唱導集大将棋の将駒の種類数と一致する。なお、6種ではないの
で、後期大将棋の駒よりは、1種足りない。場所は中世の寺院跡とされ、
平安時代末から南北朝時代の間と、埼玉県埋蔵文化財調査事業団(西暦
2000年当時)の山本靖調査員によって、特定されている。室町時代
より前だと判った点が、ありがたい所である。なお、何らかの儀式のた
めに、5つが一組で埋設されたように見え、”5つセットの何者か”が
有ったと、解明もされている。この点もうれしい所である。webにも
サイトがある。が、山本靖研究員の報告は書籍にもなっており、その書籍
では5個組のうちの金宝塔が、本の表紙を飾っている。5つ並べた本文中
の写真が、表紙の図案になっていたら、多少より早く、私は気がついた
かもしれない。

五色小型宝塔.gif

 ところで、山本靖調査員の少なくとも、2000年当時の見解によれ
ば、「全国にも類例が無いため、この遺物が何を意味するのか謎」との
ことである。が、

私には大理国の、日本ではレアな仏教に関する情報が、埼玉県児玉郡に
南北朝時代までの間に、何者かによって伝えられ、関係者が当時相当裕
福だったのだろう。当時の地元の寺で、大理国パターンの仏教法事を行う
ためのものと見られる、出土遺物がその関係者の弔いに関連して作られた

ようにしか、どうみても見えない。
むろん特定は難しいが、大理国の仏教事情という中世の日本人にとって
は、レアな情報に興味を持つのは、何か特別な事情があるのであろう。
一つには、寺に将棋史に詳しい僧侶か居たか、檀家に将棋史をよく知る
者が、平安時代末期から、南北朝時代の間に居たという、事情かもしれ
ないと私は思う。
 平安時代の末期から南北朝時代までは「大将棋の将駒の数は、玉将、
金将、銀将、銅将、鉄将の5種で、こうしたいろいろな素材の将駒は、
大理国の仏教造形物が、金、銀、銅、金銅、鉄といった、いろいろな
種類の貴金属を別々に使って、似たカテゴリーの物を作成した事に由来
する」という情報が、上記5品を出土した寺に、伝わっていた。そこで
たとえば、その情報にからんでいた、金持ちの檀家が亡くなって、多額
の寄付が、寺にもたらされれば、出土遺物のような5品を、寺は記念に
製作して、檀家の墓地に、供えるのかもしれないと、私は思うのである。
 では、金持ちの檀家は何処から、この日本の将棋の歴史に関する情報を
得たのであろうかと、言う事になるのだが。遺跡の付近は、平安時代末期
から南北朝時代までは、武蔵武士が住んでおり、南北朝時代には児玉党
と猪俣党という勢力が、強かったと聞いている。ちなみに彼らは、
もともとかなり、信心深かったらしい。美里町には「猪俣の百八燈」とい
う、先祖を崇拝する信仰の儀式が、平成の現在でも残されている。裕福で
金が有りさえすれば、信仰心が高いので、寺への寄付を惜しみなくする
武家が、中世に美里町周囲に住んでいたと言う事であろう。そこで具体的に、
児玉党や猪俣党の武士が、南北朝時代までで、羽振りがよくなりそうな
要因が彼らにあるとすれば、それが何時なのかであるが、

西暦1381年に第2次小山義政の乱で、小山義政を討伐するための軍列
に、児玉党、猪俣党は、白旗一揆等の名称で、足利氏満の配下となって
加わり、勝って相当の戦利品を受け、南北朝時代の後期には、はぶりは
かなり良さそうだった

と私は想定している。出土物の形式からは、特定できなかったようで
あるが、出土物の年代は、武蔵七党が最も盛んだった、南北朝時代も、
有力なのではなかろうかと、私は想像する。
ところが実は、小山義政とは、以前から述べているように、将棋関連で、
2007年に、第2次小山義政の乱の陣地の栃木県小山市神鳥谷曲輪で、

裏一文字金角行駒が出土した

事で有名な、あの小山義政の事である。仮に小山義政が、第2次小山義政
の乱で負けて、児玉党や猪俣党の武家の頭と接触したおりに、小山義政
の知っていた、将棋史に関する情報が、和解と文化交流により、小山氏
から武蔵武士に、1381年の冬頃伝達されていれば「羽振りの良い、
将棋史をよく知る、武蔵七党の有力者の謎」は、一応は解けるというわけ
かもしれない。

つまり、駒数多数将棋と、なにか絡んでいるらしい、小山氏一族ではない
のだが、埼玉県に在住していた武蔵武士は、栃木県の小山氏とは、代表的
な合戦で、たまたま敵味方だっため、両者は互いに、人的接触のある一族

なのである。しかも児玉党は武蔵七党の中でも、最も有力な武士団なため、
その大将が亡くなれば、縁あって、大理国の多色仏教造形物に生前興味を持
った大将の為に、鉱山国家で金銀が豊富で、羽振りの良い大理国式の仏事で
弔いが行われても、さほどの不思議は無いのかも知れないと私は思う。
 思えば今まで私は、神鳥谷曲輪遺跡の、裏一文字金角行駒に関する調査と
言えば、小山氏関連のみを、集中的にターゲットとしてきた。しかし、
考えてみれば、小山義政の乱に関連した一族で有力な者も、何かを知ってい
るのではないかという点で、疑わしいと言えば、疑わしいのかもしれない。
 そこでこれからは、少なくとも児玉党、猪俣党の本拠地、埼玉県児玉郡美里町
については、駒数多数将棋に関する、チェックリストに挙げておこうと、この
出土品情報を見て、私は考えた次第である。(2017/05/28)