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将棋の駒の起源は増川宏一氏の推定から経帙牌(きょうもつはい)か(長さん)

増川宏一氏のものと人間の文化史23-1将棋にあるように、将棋の駒
が五角形なのは、経帙牌を、僧や寺男が転用したためとの説がある。
私は、この説に賛成なのであるが、

増川宏一先生とは違い私は、平安時代後期の
西暦1010年頃に、初めて経帙牌が将棋駒として転用された

と思っている。倭名類聚、源氏物語、枕草子に将棋の記載が無いので、十世
紀に日本で平安小将棋系のゲームが、行われていないと、定説通り考えてい
るためである。しかし、前記「ものと人間の文化史23-1将棋」の、少な
くとも1977年版を読むと、増川先生が、経帙牌を将棋駒として使い始め
たのは、飛鳥時代から奈良時代と推定されているように、私には取れる。
これは経帙牌については、飛鳥~奈良時代時代が、唐からの経典の輸入が、
ピークだったために、その付属品である経帙牌も、その頃が使用の中心と
いう事実があるので、増川先生のような説明に、当然なるのである。
 そこで経帙牌の使用頻度が下がり、32枚の単位で、まとめて入手し辛い
のではないかと疑われる、西暦1010年頃に、将棋を指した人間が、それ
で、最初に指せた理由について、私の考えを以下述べる。結論を先に書くと、

将棋を日本に伝えた中国人と、その時点で、古より経帙牌を日本に輸出して
いる中国人が、どちらも交易商人でかつ、たまたま同一人物だったからだ

と私は思う。彼は、中国の経典の交易商でもあったので、経帙牌も昔から
取り扱っており、写経の需要が減って、そのための経帙牌の要求が、日本の
大宰府の、私設貿易仲介担当者からの指示数として、従来少なくなっていた
とは、当然認識していたに違いない。しかしながら、大宰府で西暦1010
年頃に、私設貿易仲介担当者から突然、
「将棋の駒として、大宰府内で使用するので、こんどは数百枚程度の数で、
まとまった枚数、交易品といっしょに、経帙牌も持参してほしい」と頼まれ
た。だが、中国の経典の交易商は、日本に

将棋を伝来させた張本人であるから、意味が当然判るのであり、「下っ端武
士の道具は、しょせん板切れの束にすぎない」と、内心思って呆れはしても、
ある程度金になりさえすれば、次回に大宰府に交易で来日するときに、当然
言われたとおりに、経帙牌を持って来たのではないかと、私は推定する

のである。
 恐らくこうして輸入された、通例より数が異常に多い経帙牌は、表向きは
大宰府条の御坊に、「写経して作成された国内経典に付帯使用する」のだと
して、一旦卸され、将棋の駒名が、恐らくアルバイトの僧侶等によって、密
かに書き込まれた上で、更に大宰府の武家に、完成品が原価に比べれば相当
高値で、ひょっとすると販売されて、将棋の駒として使用されたのだろう。
なお大宰府条の御坊からは、間を詰めて、試し習字したらしい「桂馬香車歩
兵」と記載された、平安時代後期の木簡だけが、現在出土し見つかっている。
ともわれ、

木簡を削って作るよりこの方が、将棋駒の作成は、はるかに楽で、出来も
よかったに違いない。

 つまり、日本で最初の五角形駒はもともとは、たまたま、大宰府条の御坊
に在庫してあった、昔使用した余り物の32枚の経帙牌が、形から使える
と、将棋を最初に教わった、漢字の読み書きのできる日本人に判断されて、
最初の原始平安小将棋の日本人棋士に、将棋駒第1号として、確かに西暦
1000年頃に、使われたのが起源であったと私は考える。しかし察するに、
五角形木製将棋駒一式2~15、16作目位は、次回の北宋交易のときに、
法外に大量に不正輸入された、経帙牌を駒木地にして作成された、実は元々
「下っ端武士用の将棋道具」だったのではあるまいか。むろんこうした不正
な交易品は、大宰府内だけで、少なくとも初期には限定的に使われて、京都
には行為が隠匿されたのであろう。そのため、運よく直ぐには、大きな問題
にはならなかったに違いない。そしてこれにより、大宰府では最初から、
比較的整った五角形駒で将棋が指せ、更に棋士の数を、増加させることが
出来た。だから将棋が日本に初めて定着する、この地こそが、日本の将棋の
故郷となりえる、大きな要因になったのだろう。と、私は以上のように、考
えているのである。(2017/06/03)