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本朝俗諺誌(ほんちょうぞくげんし)の将棋史の記載は本当に作り物か(長さん)

徳川吉宗から家重へ将軍が交代した頃かと思うが、1746年(延亨三年)
出版された本朝俗諺誌に、将棋の歴史に関する記載がある。それによると、
「将棋は唐へ、吉備真備が天平勝宝4年~6年(西暦752~754年)に
入ったときに、日本に伝えられたが、これは現在の将棋とは異なるもので
ある。その後江師(大江匡房)が、将棋を発明した」と、記載されていると、
1977年版のものと人間の文化史23-1将棋Ⅰの初期の版に、記載され
ている。そこで、この本朝俗諺誌の説の当否について、以下話題にする。
 本朝俗諺誌の著者が、何故それを知っているのか、情報の出所がはっきり
しないが、真実にかなり近い知られざる情報を記していると、わたしはこの
情報を個人的には評価している。すなわち、

「大江匡房が、将棋を発明した」を、”大江匡房が、平安時代の後期の院政
初期に、宮廷で指される小将棋を、9×9升目型の標準形の平安小将棋だけ
に、限定した”に変えれば、残りは正解だと

私が思っているという事である。
また、

吉備真備は天平勝宝4年~6年(西暦752~754年)に唐で、アラビア
のシャトランジを指した事があった

とすれば、差した事が無かったというのよりも、かなり尤もらしいと、個人
的には思う。地続きだしシルクロードは有ったのだし、アラビア方面にシャ
トランジは有ったのだから、国際都市長安では、シャトランジに関する情報
が当時存在しなかったというのは、不自然だと私は思うのである。が唐に、
これに関する中国語で書かれた文献があっただろうか、というと、それは謎
だ。更に日本に”もたらす”と、アラビアのこのゲームに、ありがたみがあ
るとも、私には思えない。シャトランジは明らかに、現在の日本の将棋とは
異なるし、平安小将棋とも歩兵の位置、歩兵の成り位置、桂馬、香車、銀将
のルールが皆違う。そもそも、当然だが、シャトランジは王、将、象、馬、
車、兵が、中国のシャンチーの帥/将、士、象、馬、車、兵と、類似の動き
をするゲームである。以上の事から本朝俗諺誌の”これは、現在の将棋とは
異なるものである”との旨の情報は、的を得たものなのではないのだろうか。
 なお1977年時点での増川先生の上記著書の記載によれば「このような、
はっきりとした、日本の将棋の起源に関する記載は、江戸時代では、時代が
下るにつれて、少なくなる」となっている。ただし上記の、ものと人間の文
化史23-1将棋Ⅰ、1977年版には、西暦1746年より新しい文献に、
将棋の起源に対して”曖昧に記載されている例”が、挙がっていないように、
私は疑っている。
 ただ恐らく増川先生は、他の情報もお持ちなので、「将棋の起源は判らな
い」という旨の説が、幕末には定着したと考えられる根拠は、実際には種々
知っておられるのではあろうが。
 ただし幕末に向かうに従って、将棋の伝来の様子が曖昧になるというのは、
”書き手が正直になってきて、口伝等を書かなくなるから”という理由とは
別に、より単純に、

その間に、忘れ去られたからである

と、考える事もできるような気が、私にはする。増川先生も、同著書で示唆
されているように、将棋の家元は江戸時代、初期の頃には幕府の庇護を受ける
ために、将棋に関する権威付けが必要だったが、時代が下ると、庇護を受ける
のが普通になったため、将棋の歴史の権威に関して、意識がだんだん薄くな
った疑いが強いと、私も思う。
 つまり、将棋史を真剣に主張する空気が薄くなるにつれて、歴史のうち家元
代々が口頭で伝承していた、口頭に頼る歴史情報が、徳川三百年の歴史の中で、
次第に曖昧化した可能性も、完全には否定できないのではないかと、私は思う。
 ただ、吉備真備が指したチェス・将棋ゲームについては、それが、
シャトランジであるとすれば、将棋とは呼べないのであるから、日本の将棋史
にはさしたる影響は無いのではないかと、私は思う。それに対して、

院政派の大江匡房が、玉将が金将と同格の雰囲気で並んでいて、摂関時代の
藤原貴族は、一族の複数人が位が高くて、日本を牛耳っており、天皇や上皇は
そのゲームの中心駒にはなっていないのが、ありありと見える、8×8升目制
原始平安小将棋に不審を抱いていた。だから彼が、王将や玉将という、帝が中
央に居るようにはっきり見えるモデルの、9×9升目制標準平安小将棋に、そ
れを取って変えてみせた

という重大な歴史を、”本朝俗諺誌の将棋の歴史に関する記載”を軽視する事
によって、忘れさられてしまうというのは、この情報内容が仮に正しいとする
と、著しく貴重な史料の消滅だと、私には思われるので注意が必要だと考える。
 なお私は個人的には、はっきりとした証拠は持ち合わせないが、江戸時代に、
そのような変化が起こったのは、

徳川家重と徳川家治、特に後者の徳川家治が、将棋将軍と評されるほど
将棋に親しんだのが、将棋家元に前記の緩みができた事の、最大の原因だった

のではないかと思う。1746年頃には、本朝俗諺誌に書かれたように、将棋
の由来は必死に広報されたのであろうが、徳川家治の特に後期、西暦1770
年代以降の治世には、日本の一強が、特に好んで押す将棋を優遇する事は、

徳川幕藩体制内部の人間が全て、それこそ”忖度の塊となって”推進した

のであろう。だから、将棋の家元が、将棋のルーツに関して、権威付けをする
ため、誇り高き将棋のルーツを、主張し続けるという事は、家重、家治以降は
実際に、少なくなったのかもしれない。
 たとえば私は以前、徳川家治が日光へ、徳川家康と徳川家光の参拝のために
行くとき、先祖を供養するだけではなくて、先に亡くなってしまった家族であ
る、妻の五十宮倫子女王や娘の徳川万寿姫の、三面の部品にかこつけて、腹心
の家来と、祖先が戦国時代に焼津で中将棋を指していたと見られるその部下の

老中の田沼意次および、当時の配下で、若かりし頃の長谷川平蔵が、結託し、

日光街道道中の2~3箇所、日光滝尾神社・小山宿の神鳥谷天神近く等、女性
の仏を暗示させる菩薩仏やその堂宇に、将棋史を調査の上、適切な形の将棋の
駒を供えて回った可能性があると、示唆した事があった。後者が、栃木県
小山市神鳥谷曲輪で出土した、裏金一文字角行駒と、現物として同一である
可能性が、有り得るのだと私見する。
 つまり徳川家治のこの時代一時期は、幕閣は誰もが、将軍の気持ちを忖度し
て、自発的に将棋と係わりを持とうとする、将棋史啓蒙が行き届いた時代だっ
た事を、これはひょっとすると、示している一例かもしれないと、思っている。
何れにしても、

大江匡房が少なくとも、宮中で指す将棋に関して院政期、何かを上奏したのか
もしれない

という、初期院政派・大江匡房が、将棋史に関わりがあるという、重大な内容
について、江戸時代の徳川吉宗の時代までは、少なくとも口伝として、それが
残存していた。しかしその直後に、将棋の啓蒙の努力の空気が緩んで、忘れら
れた可能性が、完全には否定できないように、私には思える。(2017/06/04)