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8×8升目32枚制原始平安小将棋(仮称)の立体駒成り表現(長さん)

現在日本の将棋は、五角形駒を使用し、成りは駒の裏に字を書いて示して
いる。前に述べたように、私はこの将棋が、鉱山国家、中国雲南省に、
かつて存在した、大理国から来たゲームであるとみる。そして大理国では、
立体駒で、ゲームが行われていたと、推定している。経帙牌でゲームを
するというのは、私の説だと、日本人、特に九州大宰府の僧ないし、武家
の発案である。これに関して、かつて将棋史研究家の(故)溝口和彦さん
は、「立体駒では、成りが表現しくいため、日本の将棋が、チェスのよう
に立体駒で、指された事は無かった。」との旨、何回か主張されていた。
そこで今回はこの、立体駒での成り表現について、考えてみる。私は、
オリジナルの大理国の将棋具でも、そこまでそうであったとまでは、敢え
て言わないが、日本に最初に輸入された立体駒将棋道具については、
少なくとも、

金将駒は30枚作られており、初期配列では2枚使用、残りの28枚は、
並べて盤の横に、これらの黄金駒が成り駒として使われるまで、整列待機
させるような、控えの陳列の座までが、恐らく作られていた

と推定している。つまり北宋の商人が、藤原摂関の贈答品として持ってき
た、原始平安小将棋の駒では少なくとも、成るたびに、全部駒を交換して
いたのだと思う。溝口さんが、駒を交換して成りを表す事に、かつて言及
されなかったのは、彼には持ち駒ルールしか、念頭に無かったからである。
だが、8升目制の原始平安小将棋が、取り捨てルールだと認めてしまうと、
相手の駒を討ったときに、成る前の駒を探して戻す、めんどくささがない
から、せいぜい回り将棋で、駒を取り替えるのと、この成り表現では、手
間は同じレベルになる。だからそれで、特に問題はないと私は考えている
のである。なお、私が、藤原摂関用の立体将棋駒贈答品が、金将30枚1
セットであると考えているのは、次のように考えているからだ。すなわち
北宋商人が運んで来たに違いない、藤原道長なり、藤原頼通用の贈答品が、

それほどの、きらびやかな黄金の将棋具であるからこそ、都で金将に成っ
て、彼ら摂関の副官として西暦1020年頃に出世した、かつての同僚な
り上司の、藤原隆家に自分も続こうと、大宰府の国境警備兵の武士達は、
経帙牌で、敵陣3段目で歩兵が金に成る、原始平安小将棋を熱心に指した
のだ

という事なのではあるまいか。むろん、彼らの使用する、経帙牌へ字を書
いて、立体金将駒等を表現した、オリジナルの贈答品よりは、はるかに地
味な将棋道具には、牌の在庫数にも限りが有った為、また実際には、その
方がむしろ、当然便利な事にたまたま気が付いて、裏に字を書いて、成り
を表すようにしたのであろう。
 すると、敵陣の金将が、ただの金将ではなくて、と金である場合には、
それが直ぐに判るという効果が新たに生じた。そのため、ますます将棋を
指すとき座が盛り上がって、将棋が大宰府では、更に盛んになったに違い
ないと、私は思う。
 なお同じく溝口さんにより、タイのマークルックの兵駒が、ひっくり返
して副官駒に成る仕掛けの、立体駒である点も指摘されていた。私は、こ
の仕掛けは、日本の戦国時代から近世の初期にあった、タイの日本人居住
区からの、伝来かもしれないと疑っている。西洋チェスとは異なり、兵駒
が、日本の小将棋系列と同じく、敵陣3段目で成るマークルックでは、兵
が他の8升目制チェス型ゲームより成り易いため、副官化の表現手法につ
いて、日本の小将棋の方式を、ずっと後になって、逆輸入した可能性は、
あるいはあるのかもしれないと思う。
 なお私は、平安小将棋系列では、成り先が最初から存在する駒種の金将
であるため、駒道具の管理上も、金将駒30枚なり32枚が、駒の収納場
所に混在して保管されていても、さして煩雑にならないと思う。
 しかし確かに、本将棋系列では将棋・象棋・チェス型ゲームに、成り駒
待機交換使用方式というやり方の前例は無い。しかし日本では、回り将棋
という将棋遊びが公知である。にも係わらず、頭から交換法を煩雑である
という理由で、否定する意見が仮に有るとすれば、「持ち駒ルール以外に
認めない」というなら話は別だが、そうでなければかなり不可解だと、私
は感じる。(2017/06/13)