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下河辺荘新方の歴史講演会(2)(長さん)

6月7日に引き続いて、埼玉県越谷市郷土研究会顧問の加藤幸一氏に
よる、表題の講演の聴講をさせていただいた。内容は、
埼玉県越谷市大吉(おおよし)~埼玉県北葛飾郡松伏町田中付近の近
世・近代の歴史と、付近を流れる古利根川との関連についてが、ほぼ
中心であった。
 が前回、新方郷の鎌倉時代の歴史について、話の出た、
埼玉県越谷市向畑と、埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に掛かる、
堂面橋付近とも推定される、鎌倉時代中期の、荘園中心”十丁免”に
関する、補充史料の紹介も有った。埼玉県越谷市向畑の廃寺に、”極
めて古い仏像”が、非公式に存在するのを、加藤先生が、個人的に
知っているというのが根拠であった。しかし写真で現物が、実際に
あるらしいことは、私にも判ったが、

具体的に仏像が、現在何処に確かにあるのか正確な情報は、盗難防止
の為公開できない

との事であった。非公開な点が多い事は、誠に残念な事であり、これ
では学術的には、証拠になりにくいのではないのだろうかと、個人的
には、この情報の行く末が心配・懸念された。その他、埼玉県の石仏
に、”西新方”の地名が、彫られたものがあり、下河辺荘新方郷は、
東西2つに分けられていた事が、ほぼ確実視されるとの、話もあった。
なお、埼玉県越谷市恩間は、比較的現在の、元荒川付近に近い所に
あるため、西に属する事はほぼ確かであろう。よって、だいたいの
見当では、戦国時代に新方氏の館の有った、埼玉県越谷市向畑のあた
りが、東の中心になりそうな事は、そう言われれば、そうも言えなく
も無いように、感覚的には、私にも思えた。
 なお、下河辺荘新方郷を2つに分けたのは、鎌倉時代中期に、下河
辺氏が、鎌倉幕府の役人へ荘園の荘司から転身した後、それを引き継
いだ金沢氏や、氏寺の称名寺が、鎌倉に住んでいる者の目線で、定め
たもののようだった。

 だからそこに、そもそも下河辺行光の館に関する情報が有るとは、
最初から、余り期待できないと言えば、できないのかもしれないと
私は思った。

 更に埼玉県越谷市向畑の廃寺の仏像の出土地点を、鎌倉時代の荘園
の中心地とする根拠にする点であるが、茨城県結城郡五霞町釈迦と、
小手指の間付近に相当古く、古代にも遡るとされる仏像と、推定され
ているものが、現地に存在するという話を、私は一般向けの史跡案内
書で読んでいる。しかしながら、五霞町小手指~釈迦が、同じく
五霞町元栗橋に比して、少なくとも中世に、下河辺荘野方の、中心の
あった場所という事を、

その仏像の存在で、そう推定するという話には、特になっていなかっ
たように、私は認識している。

 よって、埼玉県越谷市付近にあった、近世の旧新方郷地区のあたり
のうち、特別に埼玉県越谷市向畑(字)堤外付近を、そこだけ狙うと
いう考えは、とんでもない所から、ミニチュアの五色宝塔が出土した、
埼玉県児玉郡美里町の例から見ても、余り賢明な、更なる史料の探し
方とは、必ずしも言えないように、私は2回の講演を聞き取り、一応
結論付ける事とした。(2017/06/15)