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王将の起源(長さん)

平安時代11世紀のものと、考えられている興福寺出土駒の玉駒は玉将で、
一般には、この時代には”王将”は無かったとされている。では何時・何故
玉将の一部が、王将になったのであろうか。以下このブログの通例どおり、
学会では全く無名な私説を、結論的にまず最初にずばり書く。すなわち、

院政期に院政派が、王将の使用を進め、天皇等日本の中枢の威光を借りて、
玉将を王将に変えようとしたが、藤原姓の一族が、その後も、玉将を使い
続けたため、うやむやかつ、並存状態で、今日に至っている

と、私は見る。それを確かめる最も簡単な方法は、全国の将棋駒出土状況を、
たとえば、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”等の成書で、チェックすれば
良い。すると、

京都府と滋賀県では、ほぼ”王将”だけが出土している事で、簡単にこの説
の真偽が確かめられる。

ようするに結局の所、朝廷は後醍醐天皇に限らず、軍隊の中心人物、たとえ
ば征夷大将軍には、概ね皇族をすえたかったのである。実際には、鎌倉時代
については第4代からは、親王格の皇族が形式的にせよ、将軍職に着いてい
たので実際上も、この国では、天皇家の面目は、一応たっていたとは言える。
では、なぜ玉将が嫌われたかと言えば、将棋が勃興した一時期、

平安時代中期の藤原道長/頼道時代には、実際には藤原摂関の意向を忖度し
て、国軍が動いていたから

である。院政期に、上記の論からすると、元帥格の摂関の長と同一人物であ
るのが、私に言わせると自明な将棋の玉将が槍玉となり、当時は前記のよう
に征夷大将軍に、任命される人間の適任者と、朝廷内では考えられていた、
”武芸達者な天皇の息子”をイメージする、親王的”王将”に、名称を変更
するように、宮中では推進されていたものと、私は推定する。なお、実際の
出土駒を見ても、その最も初期の”王将”出土駒について、

京都府の上清滝遺跡の”王将”は、平安時代末のものと推定されるし、少し
後とも考えられている、同じく京都府にある鳥羽離宮遺跡の”王将”も、
鎌倉時代草創期位のもので、かなり院政期には近い。

よって、私の”院政期・朝廷で王将成立説”は、出土史料の使用時代の推定
とも、特段矛盾がないのではないかと考えている。
 次に、藤原姓の子孫だけが、玉将を使い続けたのは、院政派により権力を
奪取されるのを嫌っただろうから、当然なのである。主として彼らが、支持
したとみられる、本ブログの中心的題材である、駒数多数型の将棋には、よ
って本来、王将は、全く使わないのが慣わしだったろうと、私は推定してい
る。
 それは藤原姓の人物の一人、その末裔である水無瀬兼成の将棋部類抄では、
玉駒が全部玉将になっている事、冒頭で述べた藤原氏関連寺の興福寺出土駒
に、関西圏でありながら、王将が、全く出土しない事からも、良く示されている
のではないかと、私は思う。
 むろん以上の王将出現の原因となった、皇室と藤原摂関との、歴史の通俗書
には皆、出ている、11世紀初頭からしばらく続いた軋轢は、近世の江戸時代
ともなると、

大江匡房のした事が、忘れられると同時に、”以上の観点での王将か玉将か”、
という事については、どうでも良くなってしまったのだろうと、推定される。

 そのため実際、江戸時代の駒数多数将棋の将棋本には、玉将/王将が、ほ
ぼランダムに使われるし、東京の遺跡の出土駒の玉/王比は、ほぼ1:1に、
なっているのだと、私は以上のように推定し認識するのである。(2017/06/16)