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新安沖沈没船出土”遊戯盤”15升目制大将棋の原因か?(長さん)

前回、後期大将棋が15升目なのは、本質的には囲碁盤の歴史と、関連する物であ
り、(朝鮮)広将棋が大将棋と江戸時代に混同されるのは、囲碁盤のその歴史伝説
の出所が、朝鮮半島であった事からの、混同ではないかとの旨を述べた。
 その際そう考えられる根拠を、私は特に述べなかったが、その後、明らかな物的
証拠が、有るのに私は気がついた。

メッシュが、碁石を置いてちょうど良い程度の2cm間隔ではないかと、私が推定
した表題の、写真写りから、一見すると後期大将棋盤であるかのように見える、
新安沖沈没船出土”遊戯盤”の存在である。

 確かにこの遊戯盤は、将棋駒がメッシュが細かすぎて置けないと、私は思うのだ
が、その形が”あるべき大将棋盤”と見なされたという考えを、完全には否定でき
ないように、思えてきたのである。つまり、新安沖沈没船で、平安小将棋の類を指
していたとみられる日本人の船員は、「囲碁盤は、もともとは17升目盤である」
と教わった上で、この”16路型か21路型のどちらかが疑われる、成書では五目
並べ用の碁石盤”を、船内で、見せられた可能性が高いという事である。ようする
に、鎌倉時代最末期の、

新安沖沈没船の碁石を置く遊戯盤がまさに、後期大将棋が15升目型である原因の
可能性すらある

と言うことであろう。むろん、この鎌倉時代最末期の船一艘にだけ、五目並べ盤が
有ったとも思えないので、日本人は、かなりしばしば”聖目が、盤の升目に対して、
常に5、5、5、とか5、5、5、5とか、等間隔に、また聖目の有る線番号で言
うと、6、11とか、6、11、16線に、星の付いている”五目並べ盤”を、
高麗か、李氏朝鮮の人間等から、見せられたのかもしれない。その際、そのような
囲碁類盤を、朝鮮半島の人間が、たとえば五目並べに使用している理由として、

囲碁盤も、昔は17路で、盤の升目模様に対して、4、4、4、4、と聖目が有り、
また線番号で言うと、5、9、13線に、星が付いていた

と、教わったのかもしれない。
 その情報が伝わり「囲碁盤はもともと19路ではなくて、17路だから、交点数
は、暦の1年の日数に類似の、361地点ではなくて、289地点にすぎない。だ
から、囲碁と暦道との関連は、日本では飛鳥時代末期に、事情が有ったとは言うも
のの、中国では古代にまで遡るということは、格別には無い。よって『将棋のうち
駒数の多いものは、暦道に則る』との旨、南北朝時代・その時点の、異制庭訓往来
には確かに書いてあるが、陰陽師・暦道師にべったりの、普通唱導集時代の13升
目制大将棋を、だからどうしても、指さなければならないという、強い根拠が、格
別有る訳でもない」と、少なくとも南北朝時代、西暦1330年年代から、室町時
代にかけての将棋の棋士には、徐々に認識されるようになったのかもしれない。
 なお、別の機会に述べたいが、陣に敵味方の区別が無く、相手駒を取ると取った
自駒が成るという規則の、大大将棋は、盤升目が17×17升目、陣が概ね6段に
配列され、聖目位置とは合わないものの、古代の囲碁盤の交点数と、盤目の数に
ついては少なくとも同じ数である。このタイプの将棋の存在も、中国古代の囲碁が
17路制であったという情報の流入の影響を、あるいは示唆しているのではないか。

従って、大陸から、中国古代の17路の囲碁盤情報が、新安沖沈没船出土遊戯盤
時代に日本に入ってきて、その後の、駒数の多い将棋に影響した可能性

は、以上のように、淡いが思考過程を示すことができる。よって朝鮮半島の人間よ
り、日本の将棋棋士や、ゲームデザイナーの聞いたと推定される、囲碁17路盤伝
説話が、15升目後期大将棋発生の原因だったという説は、新安沖沈没船から、5
つ升目模様ごとに、星が打たれた聖目盤が、現実に出土しているため、やはり完全
には否定できないのではないかと、私は考えるようになったのである。(2017/07/02)