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大将棋・小将棋が記載された普通唱導集の広がり(長さん)

鎌倉時代後期、だいたい西暦1300年前後の成立とされる、普通唱導集は、
特に大将棋に関して、未だ知られて、い無い大将棋の類の存在を、示唆して
いる可能性がある。が、その文献の当時の広がりが、例えば畿内に限定されて
いるものであれば、普通唱導集の大将棋は、ローカルな物であって、日本全体
として、さらに将棋種の分布に関して、複雑なモデルを考えなければならない、
恐れがあるかもしれない。そこでここでは、普通唱導集の編集者で、鎌倉
時代の僧である、良季の居所や活動範囲について、判る範囲のため曖昧さが
依然大きく残るとみられるものの、一応webの情報を集めてみた。その結果、
唱導集教団と称する仏教僧集団があり、良季はそれに属していることが判った。
そしてその、唱導集教団の活動領域は概ね、

鎌倉と京都、およびそれら2つの都市を結ぶラインの領域、近畿、北陸、
関東である

事が判った。よって九州および東北に、13×13升目108枚制仮説普通
唱導集大将棋が存在したという、厳密な証拠にはならないようではあるものの、
”当時の大将棋に、端攻めの明快すぎる定跡がある”という欠点が存在する
という情報は、良季らによって、日本の主要部には充分に行き渡らされたと、
見なして良いように、私にはイメージされた。この事はほぼ、関東から関西
までの日本の主要部には、もともと普通唱導集大将棋は存在していたと、
見なされるという事であろう。
 なおもともと、普通唱導集は昭和時代の初期に、奈良の東大寺で、発見さ
れた古文書との事である。従ってそれだけではやはり、普通唱導集の大将棋
の世界は、畿内に限られる、という恐れが有ったのである。つまり、

たとえば栃木県の武将である、小山義政が西暦1370年のほぼ二十歳の頃
に、そこに唄われた将棋を知っていたとは、奈良県からは遠いため、自明で
ない。

が、良季のグループの活動が、少し前の鎌倉時代に、幕府のある鎌倉に及んで
いたとすれば、同じ関東圏である栃木県の小山氏の一族は、13×13升目
で、煩悩の数だけびっしり108枚、4段までに駒の詰まった、私の示した
仮説の普通唱導集大将棋を、義政より少し前の代伝来の、道具を所持している
等の理由で、知っていたから、良季はその”定跡の唄”を、鎌倉まで広げたと、
いう事になると考えて良いように思える。なお小山義政自体は、奈良の西大寺
と、繋がりが有る事が判っている。そのため同じく奈良の東大寺に、古文書が
残ったような情報は、鎌倉に届いていなくても、奈良県とのもともとの繋がり
により、個別には知りえる可能性が、かなり高いようではある。
 以上の事から、普通唱導集大将棋自体は、そのような将棋が有るとすれば、
日本の各地に伝来していて、その局在性は、余り心配しなくても良いような
性質のものだとして良いように、私にはイメージされた。
(2017/07/05)