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平安大将棋から普通唱導集大将棋まで、升目数が無変化だった理由(長さん)

少なくとも、私の説では、鎌倉時代初期の平安大将棋から、鎌倉時代末期近くの
普通唱導集大将棋まで、大将棋の升目は13のままであった。なお、院政期に、
平安小将棋の9升目が最高の状態から、余り時間をかけずに13升目に増えたと
私は考えている。9升目から13升目に増やしたとき、少なくとも8×8升目制
の原始平安小将棋よりは、13×13升目の大将棋の方が、勝負がつくまでに手
数がかかって、定跡が見えにくくなると、デザイナーは考えたに違いないと思う。
なお、9升目制の平安小将棋は、局面が膠着しやすく、棋士の評判が悪かったと
考えられる。では、その後もっと升目の多い将棋を作る動きが、鎌倉時代の間は、
余り無いように見えるのは何故だろうか。結論から、いつものように書くと、次
の通りである。

盤升目を増やし、駒数を多くして勝負が着くまでの手数を多くしても、指し方の
コツが見えるときには、見えるものなのであり、複雑化の効果は、意外に出ない
のに気がついた

からである。従って、平安大将棋で3段目配列を恐らく、奔横を導入した時に、
4段目に変えた以外は、先人の批判をかわすため、駒を付加する事しか、実質
行われなかったのではないか。つまり、敢えて升目数を変化させて、別の盤升目
大将棋を作る事すら、ほぼ誰もしなかったのはないかと、私は考えるのである。
 ところで、岡野伸さんの1999年の著作「世界の主な将棋」のシャンチーの
歴史に、中国北宋時代の中国に、「盤升目を増やし、駒数を増すことによって、
象棋が面白くなると考える、一派があった」と記載されている。こういう一派の
存在は、日本での平安小将棋から、恐らく19升目の将棋を経由して、13升目
の平安大将棋の変化の時点での、デザイナーと考え方はいっしょである。だから、
中国にも、日本にも、そうした「将棋ゲームデザイナーの派閥」が有った事自体
は、事実だと私も考える。
 しかし、結果としては、その論自体、余り正しいとも言えなかったのかもしれ
ないと、私は思う。勝負が長時間続く事だけが、正しかったのではないか。
 ちなみに、鎌倉時代には、少なくとも私に言わせると、大将棋では強い駒を
導入するという、動きは続いたとみられる。中国には「強い駒を増やすと、増や
せば増やすほど面白くなる」と主張した、”西洋チェス派”の別の派閥が、居た
かどうかは、私には良くわからない。が、とにかく状況からすると、日本の大将
棋デザイナーが、強い駒を特に3段目に加えて、増やし続けた事は、確かなので
はないかと、私は考えている。
 では、この強い駒を増やし続けると、面白くなると主張する、日本の鎌倉時代
の、大将棋デザイナーの派閥の意見は、正しかったのであろうか。それに対して
は私は、

強い駒を導入すると言うのは、麻薬中毒といっしょで、中盤の特定の局面で、
それまで有った、強い駒が、取り捨て将棋で有るがゆえに、切れてしまうと、
急激に局面変化が鈍くなるので、その将棋種は”出来損ないだ”と、棋士に感じ
させてしまうので、駄目なのだ

と、私は個人的には思う。逆に言うと、初めから、隣接升目へ歩む駒ばかりの、
チェス・将棋型ゲームならば、局面変化が鈍いのに、棋士が慣れてしまえば、
最初から最後まで、一定だといえばそうなのであり、ひよっとしたら不満を
感じないのではないかと、私は疑う。つまり、強い駒の多い大将棋は、その

強い駒の数が中途半端だと、それが切れたときに禁断症状を、プレーヤーに
感じさせてしまうので、いったん強い駒を加えた大将棋は、終盤まで強い
駒が途切れないように、強い駒を増やし続けるしか、なくなるのではないか

と、私は考える。以上が、極めてザックリと言えば、走り駒として、香車、奔車、
飛龍、横行の有った平安大将棋から、仮説普通唱導集大将棋までの、大将棋の
変化だったのではないか。
 なお、終盤の駒枯れ問題や、”取り捨て将棋は、引き分けになりやすい”とい
う問題については、別途考える事にし、今は、以上の話とは、別に分けて考える
べき話とだけ、指摘しておきたいと、私は希望している。(2017/07/21)