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唐代玄怪録の象棋と西暦800年~900年頃のチャトランガ(長さん)

 前回、中国唐代の牛派の頭目、牛僧儒の作と言われる、玄怪録の将棋類似ゲー
ムは、南詔国の西暦800年頃の象棋が、物語の下敷きと見るとの私説を述べた。
とすれば、この南詔国の将棋は、元々は、西暦800年までのインドチャトラン
ガが、チベットのラサを経由して、中国の雲南に伝来したものと見られるから、
元々のインド・チャトランガゲームは、前々回のべた、西暦800年より前の
インド・チャトランガ・バージョンか、追っ付けで伝来したとも考えられる、
西暦800年~900年までの、インド・チャトランガ・バージョンを、取り
入れたものかとも、考えられる。前回までは、玄怪録の将棋、一名”宝応将棋”
の、個別の駒の動かし方ルールについては、私はこのブログで、推定したり、
議論した事は無かった。が、インド・チャトランガ、個別構成駒の動かし方の
ルールの変遷の議論が出たついでに、ざっとだが、玄怪録の将棋(宝応将棋)の、
駒の動かし方ルールと、とりあえず、増川宏一氏の「将棋Ⅰ」西暦800年~
900年バージョンの、インド・チャトランガとの、比較をしてみた。いつも
のように、結論を先に書くと、

象駒が西暦800年代頃に、飛車だったというのは、この物語と、その点では、
良く有っている

ように思う。上将が象将の言い換えだとすれば、記述の通りになるからである。
そこで、

”南詔国の将棋が原始平安小将棋そのものである”というのは、間違いだった
可能性が強い

と、ごく最近私には、思えてきた。まだインド・チャトランガからそこまで、
変化はしていないようだ。
 南詔国の象棋が原始平安小将棋そのものと言うには余りにも、南詔国の将棋
の象駒が、これだと実際にも上将の飛車の動きであって、銀将とはかけ離れて
しまう。また、玄怪録のフィクションの方が、むしろ同じになるのだが、車駒
も香車ではなくて、現実の南詔国の象棋では、跳ぶ猛牛や、前回のページの、
コメントに書いたように、飛龍の動きだったのかもしれないからである。
 玄怪録の”上将”が、作者の口からでまかせの、フィクションであってほし
い所だが。象駒が銀将の動きに変わり、原始平安小将棋が、中国雲南の地に発
生するのは、残念ながら、南詔国が大理国へ変化し、追っ付けで西暦1000
年には有った、銀将動きの象駒が、木村義徳九段曰くのインド発の新しい波と
して、日本にではなくて、中国の雲南に10世紀後半に押し寄せ、象駒が銀将
動きに近くなった、五代十国から北宋の時代に、なってからだったのかもし
れないと、私は以上の事から、思うようになってきたのである。(2017/08/08)

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