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日本の将棋の、相手陣歩兵の段で成るルールは誰か発案したのか(長さん)

日本の将棋は、相手陣の歩兵の段で成るが、このタイプの成りのルールは、
他としては、タイのマークルックが有るだけである。
 タイのマークルックと、日本の将棋が同一ゲームからの分岐だとすると、
私に言わせれば、大理国の象棋の発案者が、相手陣歩兵段成りルールの、
発案者と言う事に、論は一応行き着く。しかし具体的に、大理国のヘビー・
ゲーマーによる、巧妙な調整とは、私個人は感じていない。成りの段を、
ゲームを繰り返し行う、試行錯誤によって、歩兵の段に決まるケースは、
いつもとは限らないと、私は思っているからである。であるから、日本の
将棋の成りの段は、ゲーマーが調整したのでは無いと思う。では、誰がこ
の段で、駒が成る事にしたかと言えば、

中国の唐の時代に、南詔国の象棋を指していた、王侯貴族の棋士

だと、私は思う。そもそも、恐らくチベットから南詔国へインド・チャト
ランガ系の象棋が伝来したとき、歩兵の段は、インド・チャトランガと同
じであったとすれば、2段目だったと思う。他方兵の成りの段は、敵陣最
奥で「行き所が無いため、その列の一段目駒に成る」等だったはずである。
ただ、インド・チャトランガには、歩兵が下段に配置されすぎていると、
王侯貴族に限らず、南詔国の象棋のゲーマーには、当初から懸念されて
いたに違いない。そこで、やがて時が経つうちに、南詔国で3段目歩兵
配置へ、変わったのであろう。そして、

3段目配置に変わったところで、兵はもちろん、実は馬、そして恐らく車
も、敵陣3段目で成るように、南詔国の王室が、ルールを変えた

のだと私は推定する。理由は、

ゲームの中盤以降に、盤上にたくさんの純銀駒を置いて、王侯貴族として
の階級の”高い身分”示して、少なくも自己満足に浸りたかったから

だと、私はずばり考える。駒が敵陣奥1段目ではなくて、3段目で成れれ
ば、純銀製の、現在の金将動きをする、南詔象棋の銀将が、盤上に多数乗っ
ている局面が、発生しやすくなるからである。そのため、成るのも、兵だ
けではなくて、馬と恐らく車も、南詔象棋の銀将に成るルールに、むりや
り変えたのかもしれないと私は思う。
 南詔象棋の駒の動かし方ルールは、唐の牛僧儒の書いた、玄怪録にそれ
が暗示されているというのが、私の持論であり、そこに書かれた将棋駒類
似キャラクターの、物語文中の、動きの説明に類似だと、私は考えている。
結論を、とっとと書いてしまうと、

玉駒の金将が現在の玉将の動き、大臣または副官駒の銀将が現在の金将の動き
象駒が飛車の動き、馬が桂馬と全く同じ動き、車駒が香車と全く同じ動き
兵駒が日本の歩兵と全く同じ動き

ではないかと、私は疑っている。ここで、

馬は玄怪録では、天馬となっており、実は増川宏一著「将棋Ⅰ」(1977)
に載っている、江戸時代の将棋の書「象戯図式」の和将棋の風馬の成りの、
図の動きと同じだが、象戯図式には”誤って”、文字での解説部分には
「桂馬の動き」と、私に言わせると答えが書いてある

のである。

象戯図式の著者は、牛僧儒の書いた玄怪録の、天馬の事を知っているのは
有り得るとして、そればかりか、ひょっとすると、それは桂馬動きが正し
いのに、「象戯図式」の図のように、3つ先まで斜めに行くという、別の
動きに、ごまかしていたという事まで、どうやってか私は知らないが、
知っていて、とぼけて、間違えた振りをしているのかもしれないと、私は
疑っている

という事である。同じ増川宏一氏の著書に、謎めいた玄怪録の天馬の動き
の紹介ばかりでなく、丹念に読むと、その謎解きのヒントまで載っている
とは、驚くべき事かもしれない。つぎに、

車は、同時代のインド・チャトランガでは、アラブ人のアル・アドリによ
れば、跳ぶ後期大将棋の飛龍の動きであるが、敵陣奥で、行き止まりにな
るように、南詔国の王侯貴族の棋士が、香車の動きに改竄し、こちらは、
玄怪録の輜車の動きが、南詔国の動きを正しく伝えている

のかもしれないと、私は疑っている。ここで跳ぶ後期大将棋の飛龍の動き
を香車の動きに変えたのは、敵陣3段目で、今の金将動きの銀将という名
の、純銀製の立体駒に交換したかったからではないかと、私は疑う。そし
て、この南詔国の、中盤から、純銀駒が将棋盤上に多数陳列される象棋が、

大理国では純金駒に置き換わって、更に派手さがエスカレートした挙句の
果てに、日本に西暦1015年に伝来した

のが、日本の原始平安小将棋の、実は正体なのではないかと、私は現在推
定しているというわけなのである。(2017/08/20)

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