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シャンチーは、なぜ10段9行路で、兵卒の成りが河を越えたところなのか(長さん)

表題で2つの課題を述べたが、最初の問いで9行なのは士駒を宮廷の制度
にあわせて、シャンチーでは、将や帥を頂点にして、左右対称にしたため
である。これは、恐らく中国シャンチーの九宮成立から、さほど経たない、
平安時代後期の院政の時期に、日本の将棋が、そっくりそのまま、ま
ねて、金将を片方棋士につき2個にした、原因だろうと、私は考えている。
なお、士は元々、偏と碑だったという話も聞いている。また最初の問いで、
10段なのは、九宮の直ぐ前升目で、兵卒が、それを守る形にした方が、
見栄えがよいという、

10段なのは、初期配列の見栄えが理由

だと、私は私見する。つまりゲームとしては、9行8段でも、恐らく成立
はしたのだろうと私は考えている。その場合の歩兵の段は、日本の小将棋
や、タイのマークルックのように、3段に配列されたはずである。砲も2
段目に下がり、有る意味、日本将棋に似た感じになったかもしれない。こ
のようなシャンチーも、微調整すれば作れたはずだと、私は考える。
 さて、最大の問題は兵卒の成りが、河を渡ったところにしたのが、どん
な人物かという事と、何故かという事である。前者については、このケー
スは恐らく、実際にプレーした、ゲーマーの調整だと思われる。問題は、
何故というか、

何を考えて河を作り、しかもそれを渡ったところで、シャンチーの兵卒は
成る事にしたのか

という事である。私見だが、これはアラブ・シャトランジが指せる人物の
発案であり、かつ更に大事な事は、

アラブ・シャトランジの兵駒バイダクは、その時点で、恐らく相手の駒は斜
めに居無いと、取れない現在の西洋チェスと同じルールになっていただろう

と私は推定する。つまり、シャンチーで中央で兵卒が成るのは、

兵卒同士が取り合いを開始したときに、下段の走り駒の”車”が、
チェスのように、相手陣に直射するように、兵を横にどかすためである

と私は考える。この場合の兵卒は、インド・チャトランガのように、行き止
まりだから、成るわけでもなく、日本の平安小将棋やタイのマークルックの
ように、後半、駒数が減少して戦力が落ちるのを、成りを増やして補うとい
う効果を狙ってもいないと思う。つまり、

シャンチーの河を作り、兵卒の河渡り成りを考えた人物は、アラブ・シャト
ランジの影響を、シャンチーを調整する際、強く受けていた

と推定できるように、私には思える。すでに、上記のシャンチー兵卒の成り
ようの原因については、日本でも、持駒使用の謎で、日本将棋の木村義徳九
段が、先行して研究され言及している。私の読み間違いが無ければ、

シャンチーの成りは、タイのマークルックの兵成りの効果の、中国による
輸入

と持駒使用の謎では、書かれていたように思う。が、これは

私は違う

と思う。兵卒が横に動ければ、車筋が通り、斬り合いが盛んになる効果の方
が、兵卒の戦力の増強による、駒枯れの防止よりも、現実には効果が、大き
いのではなかろうか。なお、中国シャンチーとゲームが類似の、朝鮮チャン
ギでは、兵卒駒は最初から横にも動けるので、河を越えても性能が変化する
駒が無くなる。後者については、チャンギの対局経験が2局しかない私には、
今の所意味が、よく判ら無い。
 話を戻すと、中国シャンチーについては、兵卒の成りの調整者は、タイ・
マークルックではなくて、アラブ・シャトランジに効果が合うように、調整
していると思う。なぜなら、もしタイ・マークルックにあわせるとすれば、

相手陣の兵卒の居たもう一つ奥の段で、味方の卒や兵を、成るようにしそう
なもの

だからである。何故なら、河を越えた所で成るのと、相手の兵卒の居た段で
成るのとでは、1段しか差が無いから、変えるとゲームが、全く成立しなく
なるとまでは、考えにくいからである。
 持駒使用の謎で、木村義徳九段は、少なくともインドよりこちら側の、チェ
ス・象棋類の変化は、互いに強く結びついて、1本路で進んだと、考えて、
ストーリーを組み立てておられたと、私は”持駒将棋の謎”を読み理解して
いる。これも、

違うと私は思う。2本路だったのではないか。

つまり、私に言わせると、インド→アラブ→中国というシルクロード経路と、
インド→チベット→中国雲南→東南アジアという、茶馬の(裏)道の2経路が
あった

のではないかと言う事である。原因は率直に言って、

中国唐~宋時代の、都の文化を支える、人の心

に原因が有ったと思う。中国唐~宋時代に限らず、また民族にもほとんど無
関係に、一般に都会人の心というものは、グローバリゼーションといった言
葉を好み、その実は、その時代の最先端科学技術地域の文化を、選択吸収し
ているという、性質がある。つまり都会に住むと、隣接した地帯から、じわ
じわと伝わった結果存在する、地域文化を、彼らの言う”最先端文化”に比
べて、相対的に排除するようになるのだと私は思う。これは、唐~宋代の中
国人で無くとも、日本人でも、都市部に住めば、時代によらずに、皆そうな
っているのではないか。
 他方、都市ではなくて地方では、上に述べたように、隣接地帯から、じょ
じょに伝播してきた文物を、吸収しつづける、地方文化が、実際には存在し
つづけ、しばしば地域文化を形成する。その結果

アジアの東側の象棋は、都会人が作ったインド→アラブ→中国型と、縁在っ
て、たまたまこのケースは、日本将棋の形成の元ともなった、地方人が作っ
たインド→チベット→中国雲南→東南アジアという、2本路が、木村九段の
言うのとは違って、2筋別々にできてしまっている

のだと、私見するのである。つまりはっきり言うと、

宋の都のチャンチーのデザイナーは、大理の将棋は、知っていても考え方を、
田舎臭いと見てまねなかった

と私は見ると言う事である。前にシャンチーの象が、アラブ・シャトランジ
型であって、銀将の動きで無い事を、証拠としてあげた。それに加えて、兵
卒の成りの段が、日本の小将棋や、タイ・マークルックのように、相手陣歩
兵段に、なぜかなっていないというのも、

”先端地帯”の文化だけを吸収しようとする、都会人の心が、シャンチーを
作成したデザイナーの、心の根底にあるからではないか

と、私は以上のように疑っているという事になる。(2017/08/23)

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