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ものと人間の文化史チェス増川宏一2003のアラブ・シャトランジルール(長さん)

何回か前のこのブログのコメントで、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一
1977年に載っている、西暦800年よりすこし後の、アラブ・シャトランジ
ルールを、アラブ人の文芸家のアル・アドリが述べた内容とみられるものが、
ものと人間の文化史「チェス」増川宏一2003年に載っている、との旨を
述べた。

西暦800年~825年頃に車が飛車動き、馬が八方桂または桂馬跳び、象が
後期大将棋で踊るを跳びに変えた飛龍の動きである、

という内容である。
しかし、さいきん、ものと人間の文化史「チェス」増川宏一(2003年)を、
詳細に読み直した所、別の箇所の記述から、上記は、内容が間違っている事が
判った。結論を書くと、西暦800年~825年に車が飛車動き、馬が八方桂
または桂馬跳び、そして問題は

象が後期大将棋で踊るを跳びに変えた”猛牛”の動き

の疑いがあるらしい。理由は、ややこしいのだが、

同一西暦800年~825年頃にアル・アドリという人物が、アラブ・シャト
ランジに関連して2人居る

らしい。つまり、将棋Ⅰ記載のアラブ人の”文芸家のアル・アドリ”ではなくて、
西暦800年~825年頃に、アラブ・シャトランジの名人(アリーヤ)で、
当時「チェスの書」という成書を著作したとされる、同名の”アル・アドリ”
が、H・J・Rマレーの「チェスの歴史」(1913年)によると、文芸家の
アル・アドリが、認識するように、”アラブ・シャトランジの象は西暦800
年代の初め頃には、飛龍”ではなくて、”アラブ・シャトランジの象は、
西暦800年代の初め頃には、猛牛の動きである”
と、発表していると、「チェス」増川宏一(2003年)の別の箇所に、書い
てあるからである。つまり、つじつまを合わせると、

アラブ人の文芸家の方のアル・アドリが、自分の国のゲームルールを、誤って
覚えていると、するしかない

と、言う事である。なお、このブログのコメントで述べたが、ものと人間の文
化史「将棋Ⅰ」に出てくる、アラブ人の文芸家の方のアル・アドリが、
西暦800年代の初頭に述べた、アラブ・シャトランジ・ルールは、「チェス」
増川宏一(2003年)では、文芸家のアル・アドリが西暦800年の少し後
ではなくて、

”旅行家のアル・ビルニが西暦1031年頃に述べた内容”と、恐らく
増川宏一氏が、人間違いをして紹介していると、私は考えているという事に
なる。

1977年と2003年の間に、何が合ったのか。何ともこんがらがった、話に
なってしまったものである。
 なお話は少しズレるのだが、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一1977年
では、「チェス」増川宏一(2003年)で旅行家のアル・ビルニが、
西暦1031年頃に述べた内容であるとして、増川氏が紹介している、アラブ・
シャトランジではなくて、インド・チャトランガのルールに関して、象の動きが
互いに別々で矛盾する情報を、”哲学者で博識なアル・ビルニが、同年代に述べた
内容”として紹介している。つまり、2003年「チェス」本の”旅行家のアル・
ビルニ”が、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一1977年では、”哲学者
で博識なアル・ビルニ”と肩書きが変化した上で、
”象がインド・チャトランガでは、飛車の動きではなくて、銀将の動きである”
と、矛盾する見解を述べているという事である。
 なおこれらの”アル・ビルニ”が同一人物かどうかも、私には確認できない。
”アル・ビルニ”の生没年が、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一
1977年にも、ものと人間の文化史「チェス」増川宏一2003年にも書いて
あり、実は

数値が互いに違う

のである。
 こっちも、ひょっとすると別人かもしれないのだが。記載内容からみると、
そうでもないように、私には思えてならない。矛盾する内容とは、繰り返すと
アラブ・シャトランジのルールではなくて、インド・チャトランガのルールに
関するものである。アラブ・シャトランジ・ルールについては、ものと人間の
文化史「将棋Ⅰ」増川宏一1977年の”哲学者で博識なアル・ビルニ”の
情報には、言及は無い。

つまり、両者で、内容が合って居無いというか、「チェス」本に、インド・
チャトランガの象駒について、銀将の動き説の紹介そのものが無いと言う点
で、謎がある

という事である。そこで、前に述べた、インド・チャトランガのルールの
変遷の、このブログでの以下の、下段袖3駒の動かし方ルールのまとめは、
私の個人的な試案と、今の所しておきたい。

インド・チャトランガのルールの変遷(暫定)
西暦0800年~0900年:車駒が跳ぶ飛龍、馬駒が桂馬、象駒が飛車
西暦0900年~1000年:車駒が跳ぶ猛牛、馬駒が桂馬、象駒が角行
西暦1100年~1100年:車駒が飛車、馬駒が八方桂馬、象駒が銀将

 なお「チェス」の方には、「将棋Ⅰ」で登場した西暦800年初期に活動し
たとみられる、”アラブ人の文芸家のアル・アドリ”という人物は”著名な
チェス名人”に隠れてか、特に記載されていない。
 何れにしても私の、増川氏の2著書の、内容比較解釈が、以上で正しいと
すれば、アラブ人の文芸家のアル・アドリは、西暦800年代の初期に、
インド・四人制チャトランガのルールについて、何らかの言及を、して
いた事になる。しかし実は、これは現在の遊戯史学会の認識とは、全く
合って居無いようだ。

四人制チャトランガについては、恐らく西暦1031年頃に、哲学者で博識な
アル・ビルニが、”インド四人制チャトランガの象は銀将の動きになっている”
と、恐らく述べた時代以前には、世界のチェス史学会では、何らかの情報、
そのものが、存在し無い事になっているらしい

からである。よって、インド・チャトランガのルール変遷については、将棋Ⅰ
の”アラブ人の文芸家のアル・アドリが西暦800年代に、インドを旅行した
際に、象が飛車の動きだった”とする情報そのものが、その内容以前に、そも
そも、なぜ存在したかのように、増川宏一氏が、将棋Ⅰでは記載しているのか
についても、もう少し調査が必要という事になるだろうと、私には思われた。
ともわれ、以上をまとめて、表題の結論を述べると、

アラブ・シャトランジの下段袖3枚駒の動きのルールは、
西暦800年~825年頃に車が飛車動き、馬はひょっとして桂馬跳び、
象が後期大将棋で踊るを跳びに変えた”猛牛”の動き
西暦825年以降には、車が飛車動き、馬が恐らく八方桂、
象が後期大将棋で踊るを跳びに変えた”飛龍”の動き

だったと、思われる。ここで馬駒は、暫定的に西暦825年で私が切り替えた。
 西洋の遊戯史研究者で、チェスの祖先に、日本将棋の桂馬の動きがあると
イメージしている者は、あるいは、ほとんど居無いのかもしれない。何れにし
ても、アラブの天文学は、もともとはギリシャの科学の継続で、最初から
高度に発達していた。そのため、馬が日本の将棋のように、最初は桂馬の動
きであったとしても、天文学とシャトランジを結びつけた結果、八方桂に変化
するのは、シャトランジが伝わって、そう経たずにそうなったに違いないと、
私は個人的には思って、上記のように仮定したのである。(2017/08/31)

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